5月 13, 2011

人は変わらない。人は何億年もの以前から大切にDNAを守り伝えて来た。人は変わらない。人は懲りない。どんなに世界がデジタル化しようとも、どんなに世界がグローバルになろうとも人は変わらない。

 

僕はここで育った・・・この事実は曲げられない。この土地から生えて来た、まるで樹木のようなのが僕なのだ。だからいい加減な新しい土地に移植されては困る。人はその土地に根付いている。これを忘れてはならない。

 

被災した人々の家はそれのあった場所につくるべきだ。性懲りもなく同じところに家をつくるべきだ。人は変わらないし、懲りない。とんでもない力を発揮して流された家の場所に性懲りもなくまた家をつくる。これが当然の生き物の原理である。

 

きっとその家はいつかまた流されるであろう。自然は強烈である。膨大な資金を投入して防波堤をつくっても津波はまた街を呑み込むだろう。そう、人は自然に翻弄される。それが当然な姿なのだ。

それでも家はその場所につくるべきである。

 

江戸の人々が大火にあっても何度でも同じ街をつくったように、東北の人々は負けてはならない。自然に負けるけれど、生き物として負けてはいない。同じように馬鹿のようにそこに家をつくる。

 

でも・・・大切な事は、街は壊れても人は生き続けるべきだということだ。新しい古い街では、人は一人として死なせてはならない。家は流され、街は消えても人は全員、生き残っていなくてはならない。そんな避難の仕組み,街の仕組みを準備することになる。

 

防波堤をつくる費用で保険を掛ければいい。流されては作り替える根性と知的な配慮である。20m、30mの津波を防ぐ防波堤は天文学的数字の資金が必要だろう。そのお金をつかって再建のための保険契約をすればいい。保険も一つの防波堤である。

 

山に住んで港の職場に通勤する案とか津波より高い人工大地をつくってそこに新しい家を建てる案がある。どれも間違った提案である。人の心を無視している。街づくりも家づくりも、人々の未来の描き方は「そこから見える未来」を描くことである。今の先に未来があるのではない。未来は今の中に希望や夢としてある。そんな未来を現実の街に定着させたい。人々の想いは「ここから始まる」ことを忘れてはならない。

 

敷地を全部、まっさらにして新しい街を計画するという愚行をしてはならない。新しい街のイメージは住民の心の中にある。その青写真は自分の住んで来た家の敷地から始まる。自分の生きて来た街の土地から始まる。

 

被災地の避難所で沢山の人々が段ボール箱や布団で自分の仮の家を体育館の中につくっていた。自分の身体から発想した、「まるで自分の巣作り」のようにつくった自分のコーナーである。その延長に新しい街のイメージを探るべきである。神の目線からの街づくりを止めるべきである。まるで巣作りのように街が出来て行くように仕向け,建築家や政治家はマネージャーとして街づくりを手伝うべきである。

 

家とは人間の巣箱である。建築家は夫々の巣作りのアドバイザーであり、助っ人である事を忘れてはならない。

 

先ず、瓦礫を取り除いて夫々の家の土地を明確にし直す事である。そこに避難のための公共建築や避難のルートを定めて、残りを夫々の人が取引をする。そこに建てたい人は建てればいい。売りたい人は隣の人に売ればいい。人々はまるで集落が出来て行く仕組みのようにお互いに気遣いして自分の家を建てる。隣の人の家の窓の前は空けておこうとか風景を遮ること、太陽を遮る事を気遣いで避けて建てる。まるで群衆が上手に人を避けて歩くように、人がぶつかる事はないように、家も優れたダイナミックな調和を保つ街を形成して行く。

 

争いが起これば調整役がでるだろう。マネージャーはいろいろなアドバイスをするだろう。

 

材料を協同購入したりするのもいい。人の使っている素材を見つけて真似るものいいだろう。世界からこぞって建材の売り込み市ができるのも楽しい。

 

頭ごなしの計画はやめよう。

土地を政府が買い占めて再分配も止めよう。

大型の集合住宅を建てて住民を放り込むのも止めよう。

街づくりはその街の住民に任せよう。家づくりと街づくりを通じてその街の人々は議論をし、諍いを調整しながら素晴らしい経験をする。街づくりの経験をするのだ。ここから街の生活が始まれば素晴らしいコミュニティーが生まれるだろう。街をつくることで街の運営のノウハウが生まれてくる。

 

そのチャンスを政府も行政も建築家も奪うべきではない。

原発の事故も本当は市民に政府はこう問いかけるべきだった。「原発事故によって放射能が危険は量,排出して。みなさんはこの事態にどうしたらいいと思いますか?」必要な資料を提供して彼ら自身が自分の意志で避難を決めるべきだった。

でも行政も政府も避難を命じ、エリアへの立ち入りを禁止した。

もう初めから人々は自分の人生を自分の街づくりの意志を奪われていた。

 

あたらしい街づくりではこれを繰り返してはいけない。自分たちで自分の街や自分の人生を考える経験を奪っては行けない。

 

ボランティアの本当の意味を知っていますか?

ボランティアとはVOLUNTEERであり、VOLUNARY とは「自発的な」という意味である。VOLUNTARY SPIRIT は自発的精神を言っている。

 

アメリカ人は自分で自分の命を守るために銃を所持している。アメリカ人がボランティア活動を盛んに行うのは「自分で街を守り、自分で世界をつくる」ことを目指しての事なのだ。日本人は犯罪を取り締まるのは警察でありお役所だと思っている。

 

街づくりは自分の街だから自分でつくる権利を住民も放棄してはならない。これからの日本はますます自分で生きることを求められるだろう。発電だって自分の力で電気をつくる意識を持つ必要がでてくる。街が汚れていたら役所に電話をするのではなく、自分できれいにする。

 

被災地にボランティアが集まったけれど,本当は住民が自発的にボランティアをはじめるべきだった。それを外の人たちが助ける。瓦礫を片付ける仕事は自分たちでする。政府は彼らにその仕事を与えて支援金からD給料を支払うのがいい。人間の生活とは食事をして寝る事だけではない、その上に仕事をして社会と関わり合う事も生活の基本である。その最初の仕事を政府は被災者に与えるべきだった。自分できれいにした自分の町に自分たちの意志で街をつくっていく。そのための資金や労働の対価として支援金を使うべきだったと思う。支援金はあげる事ではなく、直ぐに始まった「瓦礫の整理や建設の仕事の対価」として使うべきだったと思う。

 

本当は、被災の直後から再建の街づくり、生活づくりが始まっていた。そのチャンスを奪ったのだ。被災者は同情され、保護されてそのために支援金が使われて来た。

 

すでに大きな間違いが始まってしまっている。

多くを学ぶチャンスがこの震災とその後の出来事の中にある。

 

新しい街はこんな形になるだろう。自然への謙虚さと知的な対策を持つ、人の心に従って昔からの土地に根づく街である。

 

人々は同じ場所に、同じように家を建て、避難のための高台に向かう広い道路と緊急避難のための避難所を建設する事になるだろう。その建物は公共施設にするといい。津波のなかで津波の力に対抗することなく、受け流す舟のような建築がいい。津波の方向はもう分かっている。だから津波が襲ってもその流れを柳に風と受け流す建築にすればいい。

 

津波の力に破壊されない方法は「流される」か「流れを変える」かである。流されながら、翻弄されながら壊れない家かそこに根付いて津波を受けても舟の舳先のような形をした先端が津波の波を切り裂いていけばいい。

その避難所の設計は船舶の設計技術が生かされるだろう。

 

家は流され、再び大切な思い出の品々は失われるだろう。でも同じ土地は残っている。そこに再建して新しい記憶をつくればいい。復旧によって復興する計画である。

 

大自然への敬虔な気持ちを忘れる事なく、自然への挑戦と自然との共生を計る都市となるだろう。自分も蟻や石ころや樹木と同じ生き物だという謙虚さと自信とを忘れてはならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

5月 10, 2011

被災地はどこも妙にきれいだった。

瓦礫が埋め尽くすところも、自動車が点々と転がっている広大な田圃の風景もどこか寂寥感の漂う、詩情あふれる風景だった。

 

日常がなにか巨大な洗礼を受けて詩的な風景に塗り直されているかのようだった。そこここにあるプラスティックのアンパンマンや健康器具や鍋窯や電化製品などが半ば微細な砂に埋もれているのだが決して不潔な,悲惨な、血みどろなものではなかった。

やはり、なにか強大な力が一瞬のうちに日常を化石化したのだった。

 

津波はそのままそこにはなく、狂った様な瞬間をすぎれば何食わぬ顔で去って行ったのだろう。水は去って泥は微細な砂になり、打ち砕かれた家の柱は壁や家具や、様々なものが粉砕されて、まさに粉々になってきれいな破片になっていた。そう、粉々のきれいな破片だった。

 

自動車はあの日常に見る自動車の悲惨な残骸には見えなかった。オイルやガソリンは蒸発したのだろうか?悲しみもまた蒸発したのだろうか?裏返しになって日頃見せない車の肢体は当たり前にそこにいた。

 

風景は舞台のようだった。

これはまさに前衛藝術の舞台だ。ランドスケープのアート作品である。

意図して自動車は電柱に駆け上り、家の上に気取って乗っているかのようだった。それにしてはちょっと出来過ぎだなと思う程にパフォーマンスは派手だった。直径20mはあろうかというオイル貯蔵のための円筒の金属体がうまく道路を飛び越して工場の敷地はしに転がっていた。その下にはぺちゃんこになった車があった。見せた事のない金属体の裏側と上部が横になって人の目に曝されている。大型のトラックが44のナンバープレートをこちらに向けて半分塀に身体を載せてお尻を曝している。それらが何も不思議はない、なにも不潔でない、なみも悲劇を感じさせずに展開されている…不思議な風景だった。

 

77のナンバーをつけた乗用車が裏返しにめちゃくちゃ壊れている。縁起をかついで選んだナンバーだったのだろう。やっと小さく、この数字の影に人の思いが透かして見える。

廻りの風景からは恨みや希望や熱い人の願いは不思議にかき消されている。2ヶ月に近い、この歳月が災害地の風景を詩に変えたのだろう。津波は日常的な人間の想いを街から奪い取っていったのだろう。

 

避難所には殆ど人は居なかった。少しの中学生とその親達がまるで留守を守っているかのように日常生活を始めている。大半の人たちは自分の家を片付けに、あるいは仕事を見つけて外出している。避難所の担当官がむしろ目立っている。様々な情報の張り紙も生活が始まっていることを教えてくれる。慰問や支援に現われる人たちも避難しているここの住民達には日常の来客になっている。まるで特別の出来事ではないように対応している。

 

この瓦礫の風景とこの避難所の風景はどこか共通するものがある。

悲劇はもうすっかり風化しているのだろう。そう出なければ二ヶ月の月日は過ごせないのだろう。辛さを克服して災害地の風景はいま、悲劇から寂寥感ただよう詩的な風景に変わりつつある。

ここで見えてくるのは偉大な自然の営為である。偉大な人間の再生能力である。

こうして全ては新しい秩序に向かうのだろう。大波が納まり静かな海になるように、日常もあたらしい日常を取り戻して行く。

 

大分に近い福岡県の山の中の奥にある民家にいる。まだ早朝の4時を回ったところである。

こうして僕も昨日のあの光景から今はのどかな山村の風景の早朝にこれを書いている。まるで絵本のページをめくったかのように、ついさっきまでの心に刻まれた光景を振り返って眺めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4月 22, 2011

新しい街の思想_災害復興の後に考えること

 

1。住んでいたところに住みたいという気持ちを大切にする(記憶とコミュニティー)定着して住む人間という生き物の自然な連続性を大切にしたい。新しい挑戦と過去を愛おしく思うことを同時に大切にするこころ。「変わらない人間」、「懲りない人間」とともに、「変われない人間」を意識する。

 

2。自然に逆らわないで自然の力を利用する。自然の一部としての人間の行き方を大切に、自然への敬虔な気持ちを持ち続ける。自然の力は人間を遥かに越える。キリスト教の思想から出来た西洋の自然観ではなく、東洋の自然観を再評価する。

 

3。生と死を素直に受け止める。自然の一部だから生死も当然のなりゆき。滅びること、破壊されることをも美しく感じるこころを大切にする。散る桜は美しい。死を歓ぶ風土を育てる。

 

4。今、生きている命を大切にする。生命最優先。物の喪失は江戸っ子から学んでこだわりを持ちすぎない。命があれば家は失ってもいい、未来がある。喪失がそのまま再出発する歓びになる。物へのこだわりは大切な気持ちなのだが、それにの関わらず物にこだわらない精神風土を育てる。

 

5。経済の仕組みを最大限に生かす。失う可能性を保険への加入でカバーする。防波堤を築くのではなくその投資分を家屋の流出時の再建費用として保険に加入する。地方自治体も街再建保険を日常から掛ける。社会制度を発達させて人間の積極的な生き方を可能とする制度を設ける。

 

6。自助の思想を大切にする。ボランタリーの意味は自発性のことである。街は自分たちでつくる。建築も可能なところは自分たちでつくる姿勢を持つ。なんでも官僚に依存するのではなく、自分ですることを覚える。自分でする事を覚えると他者を助ける気持ちも育つ。

 

7。自然エネルギーを基本としてエネルギー政策を考える。地球上のどこにでもある、太陽、風、川の流れ、地熱(マグマ)、などを利用した発電を中心に据える。「限りある地球」を大切に、地球の定員を遥かにオーバーした現在の地球の住民は地球の能力を意識してその限界を越えないように配慮する。

 

8。デジタル時代は世界を一つにした(グローバル)のだが、同時に自律性を可能とした。インターネットは個人が直接世界の個人とつながったが同時に自分というものの中心性に気付いた。家族単位では自家発電、雨水利用の水道、下水の自家浄化など、地域単位では食料の自給自足、地域発電などの自給自足型と地域の特色、人の特色を生かしたネットワーク型の二つの融合した社会をつくること。

 

■この思想で街づくりを考えていきたい。

4月 22, 2011

もう30年も前の事である。堀江青年が太平洋を単身で渡ったマーメード号の設計者にあったとこがある。丁度そのころ、僕は浮上港をキャンバスで設計してコンペに提出して評価されたりしていたし、海に浮かぶ家の設計をしようといろいろ工夫していた。要するに狭い土地にこだわらないで広い海に家を立てる構想を始めたときだった。

設計の内容はこうだ。小さい別荘のような用途で海に浮かんでいる家。屋上は快適なデッキで食事をしたり読書ができる。ステップで海面に降りると海面すれすれの小さいデッキがもう一つあって、そこから釣りをしたり海に飛び込んで遊ぶ事が出来る。キャビンは3つのフロートのような形になっていて、それを中でつないでいる。3つだから安定して海面に浮遊できる。

その中心に長いポールが空中と海中につながって立っている。このポールは釣り師の浮きのように舟の揺れを少なくする装置でもある。のどかな入り江に浮かべて過ごす一種のハウスボートであり,海上ハウスである。

マーメード号の設計者に僕はこの話をした。いいアドバイスが得られるかも知れないと思ったからだ。

即座に彼はこう言ったのだ。それは衝撃的な話だった。

「黒川君、君は海を舐めているね。自然の力を侮っているよ。一人乗りの、あんなに小さなマーメード号が嵐にあっても沈まなかったのは自然任せだったからだよ。小さい木の葉が大波でも壊れないのは波間に漂っているからなんだよ。自然のうごきに抵抗して安定させようと言う発想は根本から間違っている」

彼はそういったのだった。

ヨットは風にちからを利用して走る。グライダーも気流にのって空を飛ぶ。ジェット飛行機さえも空気の抵抗を利用して前に推進するだけで浮遊し、方向を変える。舟も海の中の浮力を利用している。すべて自然の力を利用している。

それなのに、川の堤防はただただ流れに抗して水の侵入を防ごうとするのか。津波のための防波堤も津波にただただ立ちはだかって勝とうとしている。核融合や核分裂という自然の力を起こさせながらその制御ができると信じている。

漁業だって自然のうごきに謙虚にしたがって収穫をあげている.農業だってそうだ。自然の中で人が人のために自然を利用するとしたら、それは自然の力に逆らうのではなく、自然の力に逆らうのではなく制御して人間の求める方向に力を流す事なのだ。野菜の水耕栽培や養魚も自然の力への敬意を払いながらの利用であるべきだろう。

江戸の大火に江戸っ子がどう受け止めどう対応したか。昔の人々はどのように大自然の振る舞いに対応して生きていたか・・・を考えてみるべきだろう。

我が家の実家は水害のメッカだった。伊勢湾に面した濃尾平野の水郷にある昔の埋め立て地だった。海部郡蟹江町大字蟹江新田字鹿島、という住所が示すように、「蟹がいっぱいいる入り江」のところだったし、蟹江新田の新田とは「新しく埋め立ててつくった田圃」だった。鹿島という地名も水に関係がある。伊勢湾の古くの埋め立て地だった。

そこに祖先が建てた家は「茅葺き屋根の民家を母屋にして、水屋が北側に2mほどの高さの石垣の上に立っていた。その建物はその名前が示すように洪水の時に避難のための棟だった。軒の下には木製の小舟がぶら下げられていて、記憶にある。

伊勢湾台風の時、僕は大学に入った年だったと思うのだが、現実に母屋は冠水し水屋に逃げて過ごしていた。舟は立派に機能して僕を離れた堤防まで運んでくれた。

なんと知恵深い祖先だったのだろう。自然に身を任せて生きていたのだろう。

さんさんと降り注ぐ太陽の光で発電できる。頬をなぜる心地よい風が電気を起こしてくれる。降った雨の海へ向かって流れる水の力も電気になる。地球の内部には煮えたぎるマグマがある、そのエネルギーを使った地熱発電だってある。海洋国の日本には波浪発電だって可能だ。夫々の土地で、必要な時に必要なところで発電すればいい。送電することで起こる膨大なエネルギーロスや集中して発電する事で起こる電気不足もなくなるだろう。

エネルギーもそこで、食料もその場所で、自産自消で自給自足でグローバル時代だからこそパーソナルになる。パーソナルになってお互いにリンクし合う時代である。大型コンピュータではなくて小さいコンピュータでリンクし合うことで大きな力を発揮するように小さい力がネットワークをつくる時代である。

震災後のそして、デジタル技術が進化するこれからの時代の街づくりのビジョンである。

4月 22, 2011

驚天動地とはこのことだろう。大地は毎日のようにまだまだ地震が続いている。20mもあるという津波やその後の原発の事故による放射能汚染。それではまだ収まらない。世界の人たちが日本からすっかり逃げていった!世界の人々は日本が大好きといいながら訪れようとしない。放射能が怖いのだ・・・地は揺れ、天は放射能が漂っていると見えるのだろう.この小さい東の端の世界の僻地に、だからこそエキゾティックだった島国日本はこうなったら全土が放射能汚染と感じるのも不思議はない。

その上に、まだまだあった。日本の企業がその活動を停止しているのだ。部品が足りないと世界に散らばっているトヨタの工場が生産を止めた。いつも通っている食堂も店を閉じている。料理の素材の供給が止まって開店の予定が立たないのだそうだ。

まだある。これからなのだが、夫々の会社は電力カットに向けて必死でいる。殆ど不可能なのだそうだ。それでも実現しなくてはならない。

 

メールが来ない。客が来ない。スケジュール表には予定が少ない。中国での作品の展示計画とコンペの審査、韓国ソウルでの国際会議のスケジュールはあっても国内は静かだ。昨日の鳥居ユキさんのファッションショーも自分のショールームでの小規模な会になった。毎年あるショーの後の会食も中止になった。穏やかだけれども心の冷える状態である。

 

こうしている今も、多くの人々は苦しんでいる。悲しんでいる。

三万人に近い人々が死んでしまったことになる。それぞれの家族や友人達が夫々に10人いたとしても30万人の人たちが親しい人を亡くして悲しみに暮れている。家族が稼ぎ手を失って今の哀しさだけではないずっと続く悲しみをこらえて過ごすことになる。

 

どんな街をつくるべきだろう。この悲しみが再びこないようにするにはどんな街がいいのだろう。この悲しみは人間のなにかの間違いのせいだろうか・・・。

不遜な人間達に自然が示した警告なのかも知れない。

原始の火を弄んだ人類への警告か・・・自然に打ち勝つことが出来ると思い上がった人間への報復なのか。

自然の偉大さを知っている日本人でさえ、このていたらくである。新しい街づくりは自然への人間の敬意と敬虔な祈りを埋め込んだ物でなくてはならないだろう。

 

江戸は何度となく大火にあいながら何度でも燃えやすい家を、街をつくってきた。滅びる事を許容する街を探す事なのだろう。

津波に打ち勝とうとする事の間違いを知るべきだろう。津波がきたら流されるのでいいのではないか・・・山に家を建てて、港から遠ざかる街をつくるぐらいなら津波にいつでもおいでと流される計画でいればいい。ただその場合でも人は一人として死なせてはならない。街は流されても人は死なない街なのだろう。大切な思い出の品は高台の然るべき施設に大切に保存しよう。流された街は保険ですぐに、同じ場所に再建される。流れに身を任せながら大自然の摂理に従って流されながら立ち直る事なのだろう。

 

どんなに堅固な建築や防波堤でも街は流される。それを今度の震災とそこから始まった様々な災害が教えてくれた。柳に風と受け流しながら強靭に生きる方法を探すのだろう。

美しいだけが自然ではない。恐ろしい猛獣も自然。この驚天動地な出来事も自然である。自分自身が生まれて死ぬのも自然の流れである。

大きな事を教えてくれたのだろう。

2011、04、22

 

 

3月 31, 2011

 

モビリタって知っていますか?

富士山の麓のフジスピードウェイの一部に不思議なグラウンドがある。レースのコースでもないし、自動車練習場でもない。

 

そこへこの悲劇的な大地震の前に行って来た。

カタストロフィ、日本語では破綻とでも言うのかな・・・まさに日常を切り裂く大事件がこの地震だった。突然、多くの人が命をなくし、人生を切り裂かれて、まさに大破綻だった。

 

モビリタとは自動車運転に際してのこのカタストロフィに際しての蘇生の仕方を教える施設だった。

 

人間のつくった街が地震によって発生した大津波にずたずたに破壊された。原発もその自然の力には勝てなかった。計算はしていたのに、街も原発も自然にその裏をかかれ、自然の偉大さと人間の浅はかさを教えられた。命を掛けて僕たちはこのことを知らされたのだ。

 

モビリタは自動車運転という生活の1シーンにある「運転者」と「自動車」と「道路/街」との関係のあり方を学ぶ施設だった。

いつでも起こりうるこの3つの関係のカタストロフィをどう乗り切るか・・それを学ぶ施設だった。

 

「高速走行時、突然、前に現われた人を避けるために急ブレーキを掛けるとどうなるか?」を実際にやってみる。

「急カーブを走行中に急ブレーキを掛けると車はどうなるか?」を実際に運転してやってみる。

「濡れた路面での急ブレーキを掛けるとどうなるか?」もやってみるのだ。

 

様々な異常な体験をしながら「路面や街」と「車」と「運転者/自分」の一番好ましい位置関係を学んでいくのである。

 

ライディング・ポジションは意外にしっかりとフロントガラスに近いところだと教えられた。確かに、前方に身体を置くと「車と自分との関係」がしっかりとする。

乱暴にブレーキングをして、車に装備されたABSとVSCが如何に「車と路面の関係」の調整をする優れた装置かを思い知らされた。

 

大切なのは「街や道行く人」と「運転する人」の間に「車」が介在すること。その3つの要素が優れた関係をどうしたら保持できるか・・・それが安全であることのポイントなのだと知ることになった。

 

身体で感じることの凄さ。

大震災も「人類」と「自然」との好ましい関係を教えてくれたのだろう。

自然の中で人類はこれからも挑戦的であるべきだろう。どんなカタストロフィがあろうと人々は夢を描き続ける。大切なのはその挑戦と夢はそのままに、自然を知り、謙虚な心を持って自然と人間の関係の形を探していくことだろう。

 

この体験がこんな記事になった。

http://www.toyota.co.jp/mobilitas/index.html

 

2011、03、31

 

3月 28, 2011

 

 

 

僕の誕生は太平洋戦争への導入のころだった。少年の僕はその迫り来る怒濤の年月への恐怖もなく天真爛漫に過ごしていた。

それでも少年の記憶には恐ろしい出来事も美しい出来事として記憶されている。名古屋の空が真っ赤になった空襲の夜の光景や電波妨害のためだと言われた銀色のテープがアメリカの飛行機からまき散らされた光景など・・・零戦が10000mを飛ぶB29 の編隊に立ち向かっては落され、ひらひらと空を舞い落ちる光景など,すべての戦争の記憶はドラマティックな美しい光景だった。

終戦後、名古屋市内にある東海学園に入る。厳しい受験校だったから楽しい思い出は殆ど記憶していない。美術部にいて時々絵を描いていたこと映画部の季刊誌の表紙を描いたこと、学園祭の演劇の舞台装置をデザインして賞をいただいたことなどを記憶している。

激しい受験勉強にも関わらず、持ち前の記憶力の低い僕には希望する大学には行けなかった。浪人の後に名古屋工業大学に入る。一挙に解放されて読書三昧。美術部での活動。社交ダンスの教習所通い・・・。青春はここからやっと始まったのである。しかし、この時期が僕の思想形成の大切な時期だったと思う。コリン・ウイルソンは当時はオカルトに偏っていず、「殺人百科」や「アウトサイダーとはなにか」など新実存主義と称した多くの著作が僕の思想をつくりあげていった。

1960年の安保闘争、そしてその年の世界デザイン会議(WODECO)への出席とルイス・カーンとの出合い。早稲田の大学院に友を求めて入学する。修士課程の間に始めての結婚をして、苦学生の僕はGKデザイン研究所で研究生として働き、「建築の産業化」を学ぶ。大学院に通いいながら家庭を持ち、子供をつくって就職もする。貧乏がなんの苦もなく毎日が充実していた。

当時、僕はこう考えていた。「建築は劇的に変わるだろう」と、そしてそれは「建築の都市化と産業化」に違いないと感じていた。まさにその通りになったのだが「建築の産業化」を学ぶべくGKデザイン研究生としてメタボリズムのメンバーだった栄久庵憲司さんの作品を後ろでつくっていた。

カウフマン賞と言うのがあった。研究成果を提出して評価を受けると研究費がでる・・・というものだった。それを担当して賞を得たというので100万円を貰い、80日間の世界一周をしたのが大学院博士課程を終了する最後の年末だった。世界一周の厚いチケットの束をポケットに入れて、無銭旅行のような80日間だった。

これからの世界はどの国が思想やデザインのリーダーになるだろう・・・というのが僕の旅行の目的の一つだった。途中で国ではなく民族だと気付きスエーデンの図書館でヨーロッパの民族史を学んだりもした。ユダヤ人の才能を見てのことだった。

もう一つの目的はル・コルビュジェのマルセイユにあるユニテ・ダビタシオンの前で「君の時代は終わったよ!」と告げ、「その宣言文を書くことだった」。遠くから訪ね、壮大な建築に打ちのめされて何も書けなかったことがつい最近のように思い出される。

30才の4月。建築の実務経験は殆どないままに事務所を設立した。黒川雅之建築設計事務所である。

それから44年。いろいろなことがあった。

 

 

苦しい時代が10年程続いた。野望だけは大きく、でも仕事は思うようには取れなかった。「建築は都市化と産業化で激変する」と予言していた僕は勢い建築の都市化と産業化の方に向かっていく。特に産業化はお手のものだった。強化プラスティックによる小型のカプセルハウスなどを製品化したりした。大阪万博もいいタイミングだった。政府館の展示設計や中南米協同館の設計などで大阪へたびたび通ったものである。当時完成した東名高速を1000cc のニッサンサニーでぶっ飛ばすと時速100キロで異様な振動を始めたものだ。

高度成長期にはいりバブルがぶくぶく膨れ上がるころは僕の創作意欲は最高潮だった。予算は天井がない。素材の選択は気分で決めた。坪単価で数百万使って設計できた。ゴルフ場のクラブハウスをたくさん設計した。

このころ田中一光さんとの出合いは僕の人生の大切な1ページであった。TOTOとの関係をつくってくれたのもそうだし、デザイナーズ・スペースというギャラリー運動もそうだった。人を育てる人だった。裏千家とのつながりもその時に生まれた。茶美会という現代デザインと茶道という伝統との融合の運動も田中一光さんがいてのことだった。僕のオフィスの収入も増大し、ポルシェとBMWの5000ccの二台が僕の駐車場にあった。

バブルの崩壊は簡単にやって来た。坪単価、数百万の予算で設計していたゴルフクラブハウスはその瞬間に数十万の単価の設計に変更となった。数百万のつもりで設計していたあるビルの工事費は崩壊とともに60万円で請け負う大手企業が現われた。設計料は突然十分の一になった。

そこから再び苦難な時代が始まる。小さい仕事も大手施工会社がかすめ取っていった。僕はもっぱら思索し本を書くことになる。

60才の時、コンピュータとの出合いが僕のこの著作の後押しをしてくれた。それまで、ペンだこで苦労したのが嘘のように原稿がどんどん書けるようになった。頭に浮かんでくる言葉のテンポに手が追いつかなかったのだが、キーボードはそれをいいリズムで書き取ってくれた。そして、僕の頭も創作で培った思想が言語になってどんどんでてくるようになった。

仕事がないのも悪いことじゃないと思った。お金はしっかり溜め込んでいたバブルの蓄積をタケノコ生活で細らせていった。

そのために蓄えていたかのように、もう一つの重要な時期だったと思う。

今は再び、苦難の時期である。

 

 

この僕の人生を分析してみることにした。人生の準備時期は小学校、中学、高校時代と、それに大学と大学院の教育の時代である。

確かに、色々学び、30才になるまで一人前の建築家にはなっていない。早稲田を終了して、スタジオを設立してからの12年間は窮乏時代だったのだが同時にビッグになる夢を見ながらチャレンジの連続だった。建築は変わる!と豪語して先輩の建築家達に食って掛かった。「灰皿も小さい建築だ」と主張し、「東京のレオナルド・ダ・ヴィンチ」を自称して「プッシュピンから都市まで」という展覧会をニューヨークで開催したりもした。貧乏でも、いや,貧乏だからこそ力があった。

 

 

1980年、43才の働き盛りからバブル景気が始まった。僕には絶好のタイミングだった。油の乗った時期に思いっきりの仕事ができたことは幸いだった。1992年までの12年間続いたバブル景気はこの年に突然はじけた。

宇宙の摂理が僕に創作から思索への転換を誘導したのだろう。不況はそれなりに素晴らしい効果を持っていた。それから12年間は多くの著作と展覧会を開催できた。

2006年に準備を始めて、2007年にKという会社をつくることになる。僕はレオナルド・ダ・ヴィンチを称してきた。テクノロジーを駆使してメジチ家のための武器を開発し、解剖学を通じて人体をその内部まで描き切り、彫刻や絵画や建築などすべてを総合的に創作した建築家、レオナルド・ダ・ヴィンチのように、僕は建築からプッシュピンまでデザインして来た。その上に「企て、設計し、製造し、販売する」ものづくりの総合を始めようと考えた。職人は一人の手でものづくりをする。建築家は多くの人の手を総合して、指揮してものづくりをする。このすべてのプロセスを自分で完成させようというのである。

僕はこれを創作者の総決算だと思っている。創作者としての人生の総決算かもしれない。

こうして見てくると面白いことに気付く。

起承転結の人生なのだ。起は「挑戦の時代」、承は「充実の時代」であり「創作の時代」、転は「転換の時代」「理論の時代」であり、結は「総括」の時代であった。いずれもおよそ12年。最後の結「総括の時代」はまだ始まったばかりである。その道のりを12年とすると僕は81才まで仕事をすることになる。

 

 

 

 

 

最後にそれぞれの時代を予言的に解説してみたい。生まれた時代は太平洋戦争の時代だから「 catastophe / 破綻の時代」である。そして中学、高校、大学で学び、そして最初の挑戦をする30年間は「revolution & evolution/革命と成長の時代」である。バブル期は創作の頂点にいてまさに「maturity/成熟の時代」である。

そしてその直後に再び 「catastrophe/破綻の時代」が訪れることになる。バブルの崩壊であり12年間にも及ぶ景気の低迷である。そんな中で始まる新しいKの出発は 「revolution & evolution/革命と成長の時代ということになる。2011年の東北関東大震災と福島原発の危機的状況は新しい時代の到来を暗示している。catastrophe がまだ続きながら新たな世界に突入するのだろう。

そして、この時代が終わるころ、成熟の時代が来る。その時代は恐らく僕はいないであろう。

 

左の「西暦の年代」、その次に「僕の年齢」が書いてある。そして最後のページだけその次にもう一つの「数字」がある。これは今、スイスのMendrisio 建築大学で学んでいる息子の年齢である。もう僕はいないのなら息子の年齢を書いておこう。僕のDNAを運んで次の世代に届けるのは息子である。息子70才の時、僕は120才になっている。もちろん僕はもう生きてはいないだろうけれど、僕の想いは生き続けている。

(4月4日、僕の74才の誕生日がスタジオの44周年であり、Kの4周年である。その小さなパーティーでこの僕の歩いて来た道のりを話したいと思っている)

 

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3月 22, 2011

「革命と成長」

 

津波があることを知りながら、人々は海に面して街をつくった。当然のことながら津波は人々の期待を裏切って予想を上回る巨大津波となって街を襲った。そして、街は壊滅し人々は命を落とした。

人間の力に限界があり、自然の力を御すことは出来ないことを承知しながら人は原子力発電装置をつくった。そして今、自然から巨大なしっぺ返しを受けようとしている。

それでも人間は挑戦することをやめようとしない。

 

地下に蓄積されたエネルギーが突然、解放されてもう一つの安定状態に移行するように、そして再び次の解放に向かってエネルギーを蓄積していく。生きている地球のこの躍動のように、社会も人も動いている。

 

社会も人間もこんな風に生き続けている。

 

1.満たされぬ想いを感じはじめる(欠損の感覚=discontent)

2.欲求が強化され、夢を描き始める(生き物の生命的な欲求=desire)

3.人は工夫をし、発明をして新しい技術を発見する(進化=evolution)

4.欲求は満たされ、世界と生活が変わる(充足=content)

5.新しい,輝かしい時代が始まる(快適な緊張と興奮=strain & excitement)

6.「変わらない人間」と「限りある地球」とに歪みが生じる。(不快な興奮と動揺=agitation)

7.革命と成長(=無血革命)が起こる(revolution と evolution)

8.再調整されて、新たな安定期に入る(和解=reconcileが成立する)

9.満たされぬ想いを感じはじめる(欠損の感覚=discontent)

10.欲求が強化され、夢を描き始める(生き物の生命的な欲求=desire)

 

こうして、社会も人も「生き物の原理」にしたがって限りなく欲求しその欲求を実現して成長を繰り返す。終わりのない成長という名の生命の営みである。

(2011、03、22)