飯館村を訪ねた。地元の青年、老人達、村役場の若者たちと2日間を過ごした。目眩がする程にいろいろな想いが脳裏を駆け巡る二日間だった。生きるとはどういうことか?コミュニティとはなにだったか?死の恐怖と美しい自然の信じられない対比のなかで過ごした2日間を辿ってみたい。出来るだけ簡潔にこの混乱した現地の人々と混乱した僕の頭の中をさらけ出したい。
ご自分のことを考えることで彼らの置かれた状況を考えて欲しい。「東京が放射能に汚染されて家も仕事場も放棄し、ペットを残してどこかへ避難することになった」としたらどうだろう。
僕だったら・・・コンピュータとこれまでの仕事のデータとつくりかけの家具や建築の模型と・・・作品の掲載された膨大な過去の雑誌は持って行けない・・・思い出の品も写真帳も頂いたもの、骨董品や大切な品々も持っては行けない。行き先は?・・・僕ならきっと兄弟のいる名古屋かも知れない。妻は自分の縁者の居る土地がいいと言い張るだろう。近頃仕事が多くなった中国や台湾に行くか・・・。果たしてそれで仕事が続けられるだろうか?クライアントとの連絡はどうする。やりかけの仕事の始末はどうする。友人達との別れは?・・・もちろん、東京単位の集団での避難所など考えられない。
飯館村の農民達はその上に「仕事場である農地」を放棄しなくてはならない。村のあちこちに犬や猫がうろうろしていて僕たちを追いかけて来たりする。鳴いて食べ物をねだっている。農地を放棄し、家を放棄し、農機具も・・・酪農家は牛や豚さえ放棄して去らねばならない。
男女二人の老人が僕につぶやいた。朝、起きて行政から頂いた「街の見回り」と「道路際の草刈り」のしごとを午前中に終えて、食事をして午後は何もすることがないから太っちゃうのだよという。まるで豚が餌を貰うように決まった時間に仕事を貰うだけの生活。後は寝ているしかないいだという。太ってジーンズがはけなくなったという。
彼らが失ったもの、それは「生活そのもの」だったのだ。家を失ったのではない。村を失っただけでもない。そこにいては死んでしまうから外にでなくてはならない。被災者住宅にいるということはどんなにその家が立派でも「生活がない」、「仕事がない」、太ってしまうまさに豚小屋の豚だったのだ。
ボランティアはもちろん価値がある。助かるよ・・・と被災者はいう。泥を除去したり、家財を被災者住宅まで運んでくれたりして助かったと言う。なんと謙虚な表現だろう。だって、彼らは生活を失ったのだ。被災者住宅に住んでも仕事が失われたままだ。ボランティアが運ぶ食物を食べて、寝るしかない日々に太っていくのだ。
子供の居る人は放射能による子供のうける健康被害を心配する。子供だけを避難させて老人だけが農地があるから残ろうとしても「孫の居ない毎日が孤立した老人を生み出す」。老人達半分だけが住んだとしても道路も整備しなくてはならない、水道や電気も供給しなくてはならない・・・その都市経費はとても老人だけの村落では維持できない。
放棄された農地は外来種の背の高い雑草に覆われ始めている。たまに環境維持の車と警察車が行き来するだけの道路では蔦が道路にはみ出して繁茂している。どうして動物には危険な放射能が植物には無害なのだろう。どうしてこんなに村を植物が呑み込んで行くのだろう。まるで、アンコール・ワットである。密林に覆われたアンコール・ワットの様に、数年を待たずして飯館村は変貌するだろう。
その農地を放射能のなかで今でも耕している農民もいる。あぜ道の雑草を刈り取ろうと頑張っている農家もある。去れないのだ。どうしても自分の農地を捨てきれないのだ。都会を離れて脱サラをした青年の夢も破れてしまった。建てたばかりの家をそのまま、捨てさせられている。
殆ど誰も住んでいない、空っぽの村を走り回る自動車の中に置いた線量計が始終、ピッピッピと鳴り止まない。そのピッの一つに一つの放射線が存在する。外の線量は4マイクロシーベルトから7程度。一部の地域で突然、40や70マイクロシーベルトを指したりする。雨樋の下の土は放射能が蓄積されて最大400マイクロシーベルトを指していた。
これからどうするか?彼らはなにの回答も持っていない。未来がないのだ。人間は「記憶としての過去」と「願いとしての未来」を持って今をいきている。その過去の記憶の詰まった故郷を捨て、未来の希望や予定を持たないままに生きている。これは人間であることをやめろということだ。
同じ境遇にいるから彼らは一緒に考えようとしている。そのために多様な考えが混乱して議論される。人の数だけ意見があることになる。一人一人が未来を描けないのだから議論しても結論が出ない。村を東電に買ってもらうのがいい・・・でも老人達はその土地を捨てきれない。子供達はいち早く避難しているのだが避難であって生活を手に入れたのではない、そんな状況でのこれからの村の構想が描ける筈がない。
僕は彼らにこう言って来た。先ずは自分のことを考えなさい。村がどうなるか、村をどうするかではなく、自分はどうしたいかを考えなさいと・・・。村はもう使えないから捨てなさい。自分の人生設計を広い地球で計画しなさい。この危機をチャンスにしなさい。美しい村はそっと思い出の場所として博物館か美術館のようにそれ自体を保存しよう。きっと雑草が生い茂るだろう・・・そういうところと一部でも綺麗に整備したところをつくればいい。「放射能」や「原子力発電」や「人間と自然」などの「この事件」で発見した凄いことを展示して研究する場所にしてもいい。「飯館村」は世界的に有名になった、それをシンボルとして残すことを考えよう・・・でも村の未来を自分の未来と混合してはならない。自分の人生設計をこの際、先ずしっかりつくろう。その実現の手助けを役所なり政府なり東電に要求しよう。
ボランティアーとは自発的行動のことである。東京からボランティアが来た、というのではなく、自分自身がボランタリ・スピリッツをもって自分でこの苦境をチャンスにして自分だけの未来を構想しよう。そう主張してきた。
僕は美を探すために飯館村へ出かけた。放射能という見えない危機をもった美しい風景を撮影したいと出かけて来た。美はきっとこのような死の隣にあると直感したからである。見えない放射能を撮影することはできない。でも美しく芸術的な写真にすることで放射能が見えてくるのではないか・・・と思ったのである。僕の写真術ではおぼつかないのだが、チャンスだと思ったのだ。
35度の暑い夏の訪問だから夏の風景である。もう一度、秋に来よう。冬はどうだろう?春の花の季節にも来よう・・・そう考えながら飯館村を後のした。そこで知り合った人たちとはきっと交流は続くだろう。
7月 13, 2011
人は今を生きると言ってきた。過去を振り返ることは過剰であってはならないし、未来を思うことはいいことなのだが未来のために今を犠牲にすることを僕は好まない。過去を振り返らなくても、未来のために今を犠牲にしなくても、今さえ真剣に生きていれば過去も未来も含まれると僕は思っている。それは今の中に過去は記憶として、未来は願いとしてちゃんと入っているからだ。
今を真剣に生きるという中にこれまで育ててくれた多くの先輩達への感謝もあれば,僕の死後の世界への気遣いもある。
そんな僕のことだから、次世代のために何をするべきかを今の問題としていつも考えている。面白いことなのだが人はどうやら自分の生命の先までを生きているらしい。単にDNAが伝わるということだけではなく、気付いたらまだ100年や200年生きているかのように未来のことを気遣っている。
その未来への想い、次世代への想いは被災地の再生の計画として提案したり、大学などで教育したり、講演会だってそのためだろう。僕はそんなことの他に「K塾」をやったり「物学研究会」を組織したり、「デザインプロポーザル」の活動をしている。今日はそのデザインプロポーザルのことを書こう。
<dp>、デザインプロポーザルとは複数の企業に参加していただいて「デザインの提案を世界のデザイナー達に求める仕組み」である。現在は「良品計画(無印良品)、h concept (アッシュコンセプト)、IDEA INTERNATIONAL (イデアインターナショナル)、UNION (ユニオン)、そしてK(ケイ)がネット上に課題を提出してアイディアを求めている。若いデザイナー達が商品化を目指して提案するサイトなのだ。
そうは簡単には商品化して貰えるようないいアイディアは生まれてこないのだが、多くの若者達がこれを道場のように頑張っている姿は心地よい。
これまで英語と日本語だけだったのだが中国語を加えるべく準備を始めている。そうはいっても各社に中国語のメールが来たのでは夫々の参加企業の体勢が追いつかないから応募は英語か日本語になる。中国を含む多くのアジアの国々ではデザインは今、沢山の若者達が真剣である。
この9月には上海でも台湾でも北京でもデザイナーズ・ウィークが開催され、僕も中国、香港,台湾と20日程、講演や展覧会でアジアを駆け巡ることになっている。
この<dp>というサイト、是非除いてください。デザイナーの皆さんは提案してみてください。またこのサイトへの企業としての参加を検討してください。
http://www.design-proposal.net/
6月 12, 2011
もう一度整理して書くことにする。
1_いつか未来の或る日、気仙沼を訪ねて嬉しくなる風景ってなんだろう?もう一度、東北にしかない風景が再生していることだろう。海を背景にして人々が海に接して生き,仕事をしている風景だろう。いかにも気仙沼の、ずっと前からの風景がそのまま生き生きと今の姿になっていることだろう。決して現代建築かのどこにあってもおかしくない街が気仙沼を埋め尽くしている風景じゃないことである。フランク・ロイド・ライトが「建築はそのに生えた樹木のようでなくてはならない」といったように、気仙沼には気仙沼の文化を吸い取って生えて来た建築でなくてはならない。それは「継続性」ということだ。
新しい思想が新しい生活が始まる,挑戦的な街づくりでありたいことに変わりはない。それでも気仙沼の文化とは継続的でなくてはならない.挑発的な姿勢でもいい「気仙沼の文化への敬意」をもって挑発をするべきだ。そのためには先ず、気仙沼の人々の心の中の風景から出発することである。バードビューで全体を見下ろすのではなく、気仙沼に住んで来た人々の目線から,その人々の心象風景から出発するのでなくてはならない。
今、災害地の問題は多様化している。その上、今、彼らが求めているのは「生活を開始すること」である。男は仕事を始めたい。女も女の仕事を始めたい。もう一刻も早く被災者から脱出したい。普通の生活を始めたいのが被災した地域の現状である。
もう一つ、今、被災地域は拡大している。地震から始まって津波になった。津波は多くの工場を破壊して日本全体の生産システムをおかしくした。東日本大地震は日本人すべてを被災者にした。
津波はまた原子力発電を破壊した。放射能の危険は世界に警告を発することになった。日本の放射能もれのために日本の農作物が避けられるだけではなく、原子力発電そのものへの不信が世界のエネルギー問題を再燃させた。沢山のエネルギー問題を世界に拡げることになった。もう被災地は世界に広がったといってもいい。
新しい時代を構築する必要がある。
問題は一人ずつの問題となった。どう判断しどう生きるかを一人一人が考え,判断する時代になった。
自分の街づくりも自分で考えつくる時代になった。自分の風景として自分自身を納める、「自治」の時代になった。地方の自治の前に自己を納める「自治」が必要になった。ボランティアースピリッツが求められる。「自発的精神」が求められる。
そんな時代を背景にして、気仙沼の街づくりは先ずソフトな街づくりから始めるべき時だろう。自分の目線から自分だけの見える風景を描くのである。
自分の敷地に家を建てるべきだ。再び、津波が来ても生き延びる施設はつくるのだが家は流されていい。江戸の街は7年に一回の大火があったそうだ。燃えても燃えても再建する「懲りない人間」であるべきだ。30年程で津波が来てもいい.流されてしまえばいい。日本人の無常観は自然との一体感から来ている。死さえも生とどうように美しいと考える文化は恒久的な自然に負けない街をつくることではない。流される街をつくることだ。ここで大切なことは以下のポイントである。
先ず、絶対に死なない仕組みをつくることだ。街はすべて流されても人に命は一人も失わない街をつくることである。そして、流された街をもう一度、再建する資金を保険制度によって確保することである。この二つの大前提をもとに「津波という自然に寄り添い、津波の脅威を柳に風とやり過ごす思想」を街として実現することである。
全体に失わない命と流される街の構築はこうすればいい。
2_津波から逃げるために誰でも上に逃げようとする。山に,高台に逃げる、高層階に逃げる・・・これが普通である。しかし,津波の高さは計画を遥かに越えることがおおい。今回も三階まで逃げればいいと思った人々が全員命を奪われた。どこまで逃げればいいか分からない。津波はその高さの限界を示してはくれない。
上に逃げる避難は多くの人々を捨てることにつながる。老人はどうなる? 身障者はどうなる? 子供はどうなる? 弱者を切り捨てることになる。避難のためのビルを考えたとしてもエレベーターは地震と共に止まる。歩いて階段を上るしかない。その退避ビルまで走って逃げて,たどり着いてから又階段を昇る老人や幼児のイメージを描いて見たか!
地下の避難施設をつくるべきである。
波は地上を這うように進む。山はえぐるけれど平地はえぐらない。津波は防波堤やコンクリートの建物にぶつかって激しさを増すけれど,平地はただ駆け上るだけで破壊をしない。地震で起こる地盤沈下だけは考えなくてはならない。しかしそれも今回の経験からはほんの70センチ程度だ。地下室は安全な施設になる。
高台への避難は相当な距離になる。高層階への避難には相当なエネルギーを必要とする。しかし、地下室への避難は簡単である。先ず、小さい地下室を一つの家に一つか数軒に一つつくればいい。車椅子でも簡単に移動できる。地下室には滑り台で降りればいい。老人でも幼児でも・・・重い荷物でも電力なしで降ろすことが出来る。
5月 29, 2011
被災した石巻市の先に牡鹿半島がある。小さい村が小さく入り組んだ入り江に点在していて、救助が遅れた地域である。その牡鹿半島の先端に金華山のある島(名前は知らない)と網地島がある。
今回の津波でこの網地島の被害が少なかったという。
津波は地形によって様々な挙動をしている。狭くなる地形では波が増幅されて被害が多かったし、川があることでそれを伝って奥まで津波が到達した例もある。
網地島の被害が少なかったのはその島の地形と方位に関係しているらしい。細長く、しかも津波が押し押せる方向に尖っている。まるで船のように島が津波を切り裂いて津波を受け流したのだろう。
津波の方向はもう分かっているのだから、陸に建てる避難所は船のように先の尖った建築がいい。網地島のように津波の猛威をまともに受けず、切り裂いて受け流すことが出来る。
波を切って走る船のようにではなく、停止した建築を波の方が走るのだが、建築は津波を風に柳と受け流すことになる。
地下の待避所とは別にこんな避難所の構想もできる。
5月 29, 2011
家や街は壊れても命は失わない。そんな家や街を構想しよう。
もちろん先ずは壊れない家と街の建設であるし、壊れても修理しやすい家や街もいい。耐久性のある家は壊れ難いが壊し難くもある。木造は改装し易いがコンクリートは改装し難いのが一般的である。
壊れても命は失わない木造建築の工夫もしたい。壊れ難いコンクリート造なのに改装しやすい建築だって工夫できる。江戸時代の街や家は大火に焼かれてもすぐに再生された。多くの人の命は失われたのだが決して耐火建築に建て替えたりはしなかった。燃えたら建て直す、燃え易い街で、美しく過ごしていたのである。それも一つの選択だろう。
壊れても命を失われない家。強固にするのではなく、適当に揺れ、適当に壊れながらそれでも命を失う程には壊れ尽くさない家。たとえ壊れても懲りない人間の努力が再生させる街。自然と共存する街を僕はイメージしている。
人間はいつか死ぬ。いつまでも生きていたら若い命は生まれない。人間は遺伝子を運び、遺伝子を次の世代に伝えたら死ぬのが当然なように家も文化を伝えたら壊れてもいい。哀しいけれど人は老い、人は死ぬように、哀しいけれど家も古び、壊れるからいい。
命だけ守りながら壊れるのがいい。保険で再生しながら新しい時代の新しい街をつくって行くのがいい。
そのためには避難スペースの準備だろう。100年に一回しかないかも知れない津波に投資してもいい避難方法の工夫である。
「待避のための地下室」を提案したい。
普通は津波には高台に逃げる。しかし、上に逃げる発想には限りがない。三階に準備された避難所に逃げて死んだ人々がいる。次は何mの津波となるか予想などできない。高いところに逃げるという発想の最大の難点はこの「安全な高さの限界がない」ことと、「老人や幼児や身障者」には向かないということである。高いところには逃げ難い。津波はどの高さまで逃げれば安全かという限界が見えない。
地面は海面下から少しずつ浅くなってついに海面の外にでる地形をしている。一部の人工的な突然深くなる港などでも防波堤のように独立して立っているのではないから壊れ難い。湾も次第に狭まるのが普通である。だから津波をどんどん絞られて高くなり、30mにも40mにもなってしまう。
地面の下には津波はこない。波は地表を這うように駆け上って行くだけである。そして、地面はどの家の下にもある。どの家からも瞬時に避難できるのが地下室である。アメリカのハリケーンの多い地方では地下室に避難する。津波も地下室は襲わない。
一部には70センチほどの地盤沈下もあったし、地盤が7mも移動したりしている。それでも津波は襲って最後には大海に逃げて行く。
津波は河川の氾濫にようには長居しない。去って行く。通り過ぎるのを待てばいい。まさに待避所である。
地震も地下はさほど揺れない。
数十分でも水が入らない地下室をつくればいい。もちろん1mや2mの浸水には耐えるだけではなく、脱出できる工夫も居るだろう。2〜3日の酸素や食料の保存も必要だろうし、通信施設も大切だろう。
地下室のいいのは日常的に使えることだ。ワインセラーや音楽室や図書室もいい。工場では従業員のちょっとした休憩所にしたり、倉庫も程度を超えなければいい。
その上、直ぐに避難できる。下に逃げるのだから一工夫すれば身障者や老人にも問題はない。上を津波が駆け抜ける・・・という不安だけが残るのだが・・・。
家ごとの地下室もいいし、地域でつくる協同の地下室もいい。隣の地下室とつないでまるで蟻の巣のように地下都市が出来るかもしれない。地下室の深さになれば地盤だって安定している。天井高2.5 mとして構造も入れて3mとなればちょっとした埋め立て地だってしっかりした基礎ができる。
上に逃げるのではなく、下に逃げる、「逆転の発想」である。
5月 29, 2011
新しい街は当然、再び地震や津波に被災しない街を考えることになる。どうしても「被災しない街」,「再び、命を失わない街」を構想することになる。それは当然である。
その街は「自然の力を侮らない街」になるだろう。自然に対して何が何でも対抗する街ではない。自然の一部である人間が、自然の猛威に曝されて生きていることは誰でも承知している筈である。
なぜ、樹木が台風でも簡単には倒れないかは樹木が風になびいて抵抗しないからである。なびいても根こそぎ倒れたり、枝が折れたりするのは、それも自然への従順さの一つのかたちである。枝を差し出して樹木の本体を救っているのだし、樹木が倒れる事で森を守っているのである。
自然は偉大であり、対抗してはいけないという日本人の本来の自然への姿勢を思い出す事である。
そこから発想すると、新しい街は地震にも津波にも弄ばれる街がいいことになる。地震に壊され津波に流される街がいいことになる。壊され流されても人の死なない街でなくてはならない。
絶対に壊れない家でできた街、絶対に津波に打ち勝つ街をつくろうと思うな!・・・と僕は言いたい。地震恐怖症と津波恐怖症に陥った街づくりをしてはならない。鳴く鳥の美しさ、夕暮れの感動、そよ風の気持ちよさ・・・それも自然である。人間は勝手に自分を傷つける自然を嫌がっている。人を射す猛毒をもった虫も気持ちの悪い蛇も自然である。その自然のなかで人はどう生きるべきかを考えたい。
アメリカのインデアンの長老が「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と言ったそうである。長老はまた「あの樹木もあの石ころも、あそこに居る若者も今、何を考えているか自分には分かる」という、「それらはみんな昔、自分と一つだったから・・・」分かるのだと言う。
インデアンに限らない。人間が自然を自分と一つとして考えていた時代には当たり前のことだった。自分だけ、人間だけが別だなどと考えて自然を加工し、原子力発電をつくり・・・不遜になっている。
もう一度言おう。僕がいま、構想している街づくりは台風や地震や津波に堪えるものでありたいと努めながら最後には流されることも視野にいれる街づくりである。これまでの夫々の敷地に夫々の家を再建し、それでは当然、津波に再び流される街をつくる構想である。
巨大な防波堤をつくらない。美しい港町を破壊する巨大な防波堤はつくらない。強固過ぎる家はつくらない。
そのかわり、いろいろな工夫をしたい。津波に流されるチャンスは多分100年は先だろう。たとえそれが数十年先だとしても数年じゃない。だから巨額のお金を使い、どこまで大きくしても決して安全とは思えない「防波堤」はつくらない。30mの津波でも壊れない防波堤をイメージできない。風景は無茶苦茶になるだろう。巨額なお金が掛かるだけではない、その周辺の生態系を壊し、風や海の流れを変え、人々の心さえも破壊するだろう。
防波堤にお金をつぎ込むより、そのお金で「保険」に掛ければいい。街の再生と家の再生が可能な保険をを創設し、その保険で再生が可能にすればいい。流されても壊れても作り替えるだけの金額が補償される保険をつくればいい。変わらない人間・・・と僕はいつも思う。どんなに科学技術が進歩しようと人は変わらない。その「変わらない人間」が「懲りない人間」になればいい。壊されても再生する人間になればいい。
そして、家は壊れ流されても命はなくならない街や家をつくればいい。それなら可能だ。風に柳と自然の猛威を受け流せばいい。そのための知恵を探そう。
5月 29, 2011
被災地の再生を考え続けている。
この2ヶ月間、僕も被災者だったという実感がある。つい最近まで暫く創作をしていなかったことに気付いた。
ばたばたと忙しくしていたのに・・・いろいろな創作的な仕事がストップしている事に気付いた。これでは駄目だ・・・いまこそ活力をもって日常を取り戻さないいけない。
再生の知恵・・・いろいろ考えている。街づくりには二面性がある。一つはソフトな街、要するに住む人々のコミュニティーづくり。もう一つはハードな街、家や道路やインフラの建設である。どっちから入ってもお互いに影響を与える。新しい街をこれまでのコミュニティーを無視して,むしろこれから生まれるべきコミュニティー形成を誘導するようにつくる事も出来るし、これまでのコミュニティーをそっと生かしながら新しい街、コミュニティーの器である街をつくる事も出来る。
この二つの考え方で街づくりに大きな分かれ目ができる。
こんな災害での破壊の場合はどうするのが正しいか、美しいかを考えるべきである。こんなチャンスだから思いっきり新しい街をつくるべきだ・・・新しいコミュニティーを誘導するべきだという考え方を僕は否定したい。こんな悲惨なコミュニティー破壊の後だから、つながりが家族のつながりも街のつながりも壊れてしまったのだからこそ、復旧を先ず目指してあげたい。
被災した後に人々は何を思ったか・・・家族を心配し、街の仲間を心配した筈である。この思いを大切にしたい。人は人によって生かされている。ここでは新しい人間関係をつくるなど、部外者の勝手な思いである。
もう一つの理由は街はその人の目線から描くべきだという事である。建築家や行政や都市づくりの専門化が果たして正しいコミュニティーを描けるかと言うとそれはあり得ない。本質的に人間は自分の皮膚感覚で人とつながるからだ。
それに、正しいコミュニティーというものはそもそもないと思っている。美しいコミュニティーだけがあり、その美しさは街の人々がつくりあげて行く以外にはあり得ない。
結論を言おう。被災者は夫々のこれまで住んできた心象風景を再現するのがいい。その場所から何が見えるかを思い出してそのままに再現するといい。当然、全くの再現は不可能だし人間の常としてその再現の行動の中で新しい工夫をするだろう。これまでの問題点を改善もしようとするだろう。大切なのは「これまで住んでいた家の敷地から夫々の人が自分の家を描き始める」ことである。
隣と調整し合い、話し合って夫々の住民の身体感覚で、小さな諍いや議論を経て、街をつくる事だろう。頭越しに計画せず、自発的な街づくりを為政者は誘導する事である。
これが街再生、コミュニティー再生の最初の知恵である。復旧の筈が、気付いたら復興になっていたと思うような復興でなくてはならない。街の継続性である。コミュニティーの継続性を主張したい。
フランク・ロイド・ライトは「その土地に植物が生えるように家をつくらねばならない」という。街はそこに生えるように生まれ成長して行くのでなくてはならない。