12月 18, 2013

またまた、愛国心教育という話題が政府から出てきた。愛国心ってなんだ?国って何だろう?

数年前のことだが、ソウルで講演をしたとき、聴衆の女子学生から「先生は愛国心についてどう思いますか?」という質問を受けてびっくりしたことがある。しばらく聞いていない単語だったから一瞬、戸惑ってしまったのだ。僕は即座にこう答えた。「僕は国のためにデザインをしたことはないです。世界の人間のためにデザインをしています」・・・と。

そういえば、もう三度にわたってソウルでの「東アジア三国の文化比較」に関するセミナーに招かれている。三度目は僕の尊敬する李御寧さんの推薦だったからよろこんで出席した。三度目に招待されたとき、僕は不思議な感覚を持った。どうして韓国はそれほど東アジアの三カ国、中国、韓国、日本の文化比較をしたがあるのだろう・・・と不思議になった。

ちょうどその頃、僕は「東アジアの美意識」という講演を中国のいろいろなところで始めていた。中国のデザイナーたちが自分たちのアイデンティティを知りたがっている、中国のオリジナルデザインて何だろう・・・と考え始めている時だった。それまで真似をしていればよかったのだが、彼等もコピーをしてはいけないと思い始めたのだろう。自分たちのデザインを探していた。中国人ではない僕にはそれを語る資格がない。そこで東アジアの美意識を語ることで中国のアイデンティティ探しのお手伝いをしているつもりだった。

そんな時だから、僕はこう主張していたのだ。「もう国は重要じゃない」、「文化圏こそ重要な概念だ」と主張していた。グローバル社会になって、当たり前に中国人や韓国人と交流しながら、政治の世界だけに対立し合う「国」の概念があった。どうして人間は、文化的視座では友人なのに国家の概念が登場すると対立的になるのだろう・・・と「国の概念をすてるべきだ」と思っていた。

そんなときに李御寧さんからの誘いだったのである。ソウルでのセミナーで僕はこう話し始めた。「三つの国の文化の比較が今回のテーマですが、僕は三つの国の共通性についてお話しすることにしました」・・・と。そうして、キリスト教文化、イスラム文化と東アジアの文化の相違を語ったのである。

そのことについて疑義は提出されなかったのだが、僕のレクチャーが終わってから壇上の韓国人の講師から「黒川さんのお使いになった<李氏朝鮮>という概念は韓国に対する蔑視語です・・という疑義がでた。僕は「それではどう言ってたらいいのでしょう?」と質問したのだが回答がない。彼女自身、蔑視語ではない言い方を知らなかったのだろうか??。ぼくは「朝鮮王国」でいいのでしょうか?と問うた。

韓国の人々は朝鮮人という表現が嫌いのようである。中国で北京清華大学の教授からなぜでしょうと質問を受けたのだがよくはわからない。その教授は会食の席で韓国のデザイナーに朝鮮という表現をしてしかられたのだそうである。

それはそうとして、どうして韓国の人々は自分たちが中国や日本と違うということを主張したいんだろう・・・。この相違を主張する感覚から「愛国心」が生まれているとしたらなにか怖いものが潜んでいるように思ってしまう。韓国では小学校から愛国心教育をしている。中国でもメディアは反日的情報を流している。

日本までそれをやるのか!と愕然としている。僕たち以上の年齢の日本人はこの愛国心という思想に翻弄された恐ろしい記憶がある。そうして、戦争を起こすことになったのだ。自分の国を愛することはいいことなのだが自分の国を愛することが他の国への蔑視や他の国の否定に繋がる可能性を感じずにはいられない。

僕は中国での講演に際して、必要以上に日本の文化が中国の文化を土台にして形成されてきたことを強調する。僕のどこかに、僕たちは同じ文化圏なのだと主張したいのだ。

本当は、同じ意見だから強調するのではなく、異なる意見だから歓び合い共存する時代が好ましい。意見が同じだねと握手するのではなく、意見が違うねと握手したい。同じ考えの人たちとグループを作っても成長はない。違うからこそおもしろい。そんな風になればいいのだが、違うことを対立関係と解釈し、理解することは本当は気に入らない。

愛国心は単に国を愛することなのだが、他の国の否定に繋がって行くことが恐ろしい。今回の安倍政権の「愛国心教育」も中国や韓国に対する日本人の排他的な意識教育のように思えてならない。今、僕は自分を「アジア人」だと主張している。日本は大切な、愛する故郷なのだが、まずはアジアで活動するアジア人でありたい。人間でありたい。

愛国心教育を注意深く見守っていきたい。反対を主張していきたい。その危険性を人々に知らせたい。そう思っている。

12月 16, 2013

中国の人たちの我慢強さはすごいね、と僕は中国の友人に言った。清朝の昔からずっとそうですよ、と彼は言う。確かに・・・中国人の我慢強さの並大抵ではないのは中国の歴史を見ると理解できる。元は蒙古族が支配した時代だ。明は漢族の時代だが、すぐに清朝になる。清朝は満州族が支配した時代である。

そのそれぞれの時代にたくさんの人たちが殺戮されたのだろう。でも営々と漢族は生き続けている。漢族の概念は民俗学的にはかなりいい加減らしい。元の時代に中国を去らなかった人たちも漢族を名乗っている。少数民族扱いが不利な時代は満族も漢族だと申請し、少数民族への手厚い対応が始まったら多くの人が満族になったりそうである。

日本人には信じにくいことなのだが、突然、自分たちが選んだのではない人が中国の大統領になる。市長になる。すべてが市民の関係のないところで動いている。中国のあらゆる情報は政治がコントロールしている。それは支配でもあるが「上から」中国の調和を考えてのことでもある。市民から考えると支配なのだが、中央から考えれば調和のための調整である。

こんな言葉があるという。「上有政策、下有対策」という。政府が政策を発表すると市民はそれへの対策を上手に立てるというのだ。確かに我慢強い。一筋縄ではいかない強さがある。我慢強さがビジネスでも発揮される。「お金を払いたくない」・・・これが中国人の一般的、強い心情である。できれば支払いなしで済ませたいといつも思っているから仕事をする側は大変である。

それならこちらだってそれで行こうと考える。我慢強く、絶対に払わせてやる・・・と「郷に入って郷に従う」考えで行くことにしている。中国人のように我慢強くやればちゃんとお金は支払ってくれる。税金を納めるのが大嫌いなのは中国人も日本人も同じなのだが我々はどこかで「これは義務だし、これで社会が収まるのだから・・・」と正直な申告をする。でも中国人は決してそうはしない。「できれば支払わない」という思想を我慢強く、徹底する。

長い歴史の上でも現在の生活でも、中国人は支配者が自分たちではないから「大きな力」に対抗しようとする知恵が生まれる。それが「我慢強さ」だったり「お金へのこだわり」になる。自分たちが自分たちの世界の決めていると思えなければ自分を「大きな力」から守ることに真剣に成らざるを得ない。自分を犠牲にして社会の調和をつくろうとは考えない。

中国の「大きな力」は月探査機を送ることもできる。アメリカと「大国同士」と自己紹介もする。「大きな力」が健在なら持ち前の「我慢の力」で調和を保っていく。

いつだったか・・・もう10年以上前のことだが、経済産業省(当時、通産省)のある課長が僕に言っていた。「日本で遺伝子工学の専門家を集めようとすると優秀なのは数名なのだが、中国は優秀なのが数十名、簡単に集まる」。それが中国の恐ろしさだというのである。人口が10倍いることと、この知恵と資金の集中力が日本では太刀打ちできない力である。

僕は中国人を大好きだ、と言っている。中国人とは仲良しである。いい人ばかりである。ところが中国という国家は脅威にもなる、中国のもう一つの顔である。文化と政治を分離したいな・・・とつくづく思う。中国人とは経済と文化だけでつきあっていたい。政治は僕の知らないところで動いているし、政治はどうしても好きになれない。

中国人とつきあうためには、この国家とつきあうためにも、「我慢強さ」が必要だろう。左手で指相撲でもしている気分で右手で握手し合っているのがいい。尖閣列島の問題なんてまるで指相撲の程度の争いだと思っているといい。永久に指相撲を戦い、遊びながら文化的で経済的な世界だけで仕事をしているのがいい。「我慢の力」である。

12月 06, 2013

ひとりは寂しいなと思う。ひとりでいるとき、思わずほほえむときもある。美しい風景に出会うときはすっかりひとりでいることの歓びに浸ってしまう。ひとりの時にこそ空間のすべてが僕の皮膚感覚にとどく。

ふたりでいると相手のこころが感じやすくなる。急にまわりの風景は消えてその人の人格まで伝わってくる。好きな人に触れているときはもっといいのだろうけれど、触れなくても昔からの様々な思い出がその笑顔や癖やはにかんだ様子からどきどきと伝わってくる。離れているからこそこの感覚がひろがっていく。

さんにんでいると二人でいるときと違った軽やかな会話がはじまる。集いという暖かい空間がひろがって三人の周りにもやもやと漂い始める。よにんもごにんもさんにんの延長である。群の独特な電気的信号が走り交うちょっぴり緊張感のある空間になる。

このところ、茶のことを考えている。茶は食卓の飯とことなるもう一つのうれしい時である。

ひとり茶という茶器をつくってみた。ひとりでだれもいないときに呑む茶をイメージしての茶器である。テラスに運んでひとりで風景を見ながら呑む茶のためでもある。茶はひとりに限る・・・とそんな時は思う。

日本の茶道の茶は小学校のときから馴染んできた茶である。おじいさんの催した茶会、父の時代の茶会・・・そして田中一光さんと茶の仲間と催した茶会もある。静寂の空間に湯の音を聞きながらもてなし、もてなされる茶はここへ来てよかったな・・・とほっとするメンタルな時間である。複数の人たちといながら自分に向かっていてひとりである。

ニューヨークでの展覧会のためにデザインした「between」といい、時に「蛍」という茶卓は立礼のための卓だが、明かり障子をそのまま卓にした紙と木でできた茶のためのテーブルである。こぼせば破れるからやぶれないようにそっと使う。破れたら張り替えればいいし、新しい客をもてなすときはその度に張り替えるのがいいと思っている。僕の田舎では客がくるときにはいつもあかり障子を張り替えていた。

その「蛍」のような、もう一つの茶卓を中国茶のためにつくろうと今、デザインしている最中である。日本の茶は中国から禅とともにやってきたとも言われているのだが中国人はいまでも茶が大好きである。中国文化にふれるためには先ずこの茶卓の創作がはじめの挨拶かも知れない。

中国料理は「みんな飯」である。ひとりではほとんど食べることができないほどだ。ようするに大皿盛りの料理だからである。中国茶も亭主が多くの人々にまんべんなく煎れる。小さな杯につぎつぎと注いでくれる。日本の茶の原点が「一客一亭」なのに対して、中国の茶のイメージはこんな集いの茶である。

実に多様な茶がある。ヴィンテージ物になると300年、500年まえの茶だったりする。プーアル茶がそれである。何万種類ある茶を選びながらもてなす。茶の香りを嗅ぎ、味を舌でころがして味わう。

2月に北京の798の大きなギャラリーで個展を計画しているのだがそこで発表予定である。ここではひとり茶のイメージより集いの茶が実現するだろう。


12月 04, 2013

人生は呼吸だな。人間関係も呼吸が合わないとだめだし・・・。創作も呼吸を知るといい作品ができる。肺だけではないね。心臓だってどくどく、どくどくと呼吸のように動いている。ファンのように連続的に血液を送っているのじゃない。心臓の筋肉は縮んで伸びて、縮んで伸びてを繰り返している。

呼吸は酸素を吸い込むのだけが目的なではないのだ。酸素を吸って、その帰りに二酸化炭素をはき出している。往復で別々の仕事をしているのだ。生命は酸素を連続的に吸ってどこか別の口から二酸化炭素を連続的に排出する・・・という仕組みをなぜ選ばなかったのだろう。実に巧妙にできている人間の仕組みだから何かの理由がきっとあるのだろう。

スポーツだって呼吸である。スウィングする時、ゴルフクラブでも野球のバットでもぐっと引いてからばしっと打つ。車輪じゃない、左右の二本の脚で走る人間もひだりみぎ、左右と繰り返しの動作だ。ジェットエンジンや車の車輪のように連続的ではない。この繰り返す動作で心臓が動き、呼吸して酸素を供給し、歩いている。

考えてみれば地球上での人生もそうだ。夜がきて朝が来る。陽が沈み、陽が昇る。人間も眠り起きる。働き、休息する。なぜ、ピストンエンジンのように繰り返すことで人生が動いているのだろう。マツダのロータリーエンジンは連続的だった。だから間違ったのだろうか?生命が繰り返しなのにエンジンが車輪のように連続的では生命の原理に反するのだろうか?

本当に幸せな瞬間は続かない。幸せは不幸が前提にあるからだろう。空腹なときだけ食事が美味しい。満腹じゃどんな料理も美味しくはいただけない。腹がへりおなかを満たす。誰かからお金をいただいても、いっぱい持っていたら歓びは小さいけれど貧乏しているときは嬉しい。だから幸せは不幸を前提として成り立っている。不幸があるからがんばれる。

だからスティーブジョブスがWhole Earth Catalogから引用した「Stay hungry, stay foolish」というセリフが意味を持つようになる。人生はピストンエンジンのように繰り返しなのだ。生命は連続的ではなく断続的なのだ。生命自体、生まれて死を迎える。生成して破綻し、破壊されて再び、再生する。宇宙も継続的ではないのだろう。

この断続性という生命の原理、宇宙の原理はたくさんの人生の教訓にも繋がっている。いつまでも幸せなんてないのだ。不幸だからこそ幸福が訪れる。死を意識してこそ生が見えてくる。破壊こそ創造のもう一つの形だ・・・・そう、いつか生前、杉浦日向子さんは「死はもう一つの生き方のかたちよ」と言っていた。自分の死を意識していたのだろう。

釈迦は苦行をして最後に涅槃の境地を手に入れる。悟りを開いたのだ。それなのに、涅槃は死をも意味している。悟りという最高の境地は死でもある。武士は美を完成させるために切腹した。三島由紀夫もまた美を完成させるために切腹をしている。死は究極の美なのだろう。

生命は呼吸している。宇宙も呼吸している。人生も呼吸なのだ。

宇宙は断続的である。生活も、事業も、生命も・・・。

12月 03, 2013

昨夜は物学研究会で伊東豊雄君に講演をお願いした。彼の伊東塾の塾舎で開催して、後は懇親会と楽し夜だった。

関康子さんの質問、「伊東さんは震災の後、何か思想の変化がありましたか?」。その回答の内容にあまり記憶はないのだが僕は勝手に別のことを考えていた。それは僕の東北被災地への態度、姿勢とも関係していた。僕は何度か訪れたのだが「見ること、感じること」が目的で手をさしのべることをしないままでいた。

建築家は果たして被災者と同じ地平で感じ、考えることができるのか?できはなしまい・・・という思いだった。だからあの伊東豊雄君は仕事ができる。被災者じゃないから「みんなの家」が造れる、と思っていた。どうしても「みんなの家」は「のうてんき」に見える。被災者の気持ちにきっと彼も悩んだのだろう。よそ者に何ができる・・・ときっと被災者たちは豊雄君たちの活動に心を許してはいなかったに違いない。

人の気持ちと同じになるなんてあり得ない。どんなに想像力を働かせても被災者の気持ちに近づくことなどできないに決まっている。そんなところでどんな気持ちで「みんなの家」を構想できるのだろう。

こう考えながら昔からの自分への一つの設問が僕の頭を去来した。「建築家に自邸は設計できるのか?」という設問である。被災地のあの悲劇の最中にいてはきっとあの家はできないだろう。設計の方針もイメージも沸いてこないだろう。その被災者の心境は自邸を設計する建築家とあまり変わらない。自邸とは自分の日常の整理できない様々な、混沌とした空間である。人生の現場だから生活の思想など整理できるはずがない。整理できなきゃ設計できない。被災者の気持ちはそれと同じなのだろう。

ずっと昔。そうたぶん僕の30代の前半だっただろう。僕は「建築家には自邸は設計できない」と何かに書いた記憶がある。それはそんなところからだった。

伊東豊雄君は被災者じゃなかったから「みんなの家」が設計できた。被災者と距離を置くことでやっと設計できたのだろうと思う。あのときから年月が経った。30代のあの時代の熱い思いは変わらないけれど、多少は見えてきたような気がする。

それは被災者にも設計はできるということだ。被災したこの悲劇から自らの意識を自立させて・・・現実から自分を引きはがして自分を観察さえできれば設計できる。設計という操作は自己の生活を客体化しなくてはできない。そうして混沌とした、自分も巻き込まれている現実を自分の中で客体化して初めて自邸も設計できる。

伊東豊雄君の心の中におそらく語らない無力感が潜んでいるのだと思う。講演のはしはしにそれが見えたように思う。建築設計はサービス業ではない。人の歓びや社会のために設計していると公言する人がいたらむしろ僕は軽蔑するだろう。そのように見せながら結局は自分の生き様なのだ。

いつもそうなのだが、人の講演や人の著した本に触れながら自分のことを考えている。学ぶとは考えることなのだなと思う。

(先に掲載したこの文章が途中から途切れていた。いつも直接、ブログに書くから消えてしまった内容を再現できない。新たな結論になったが修正を加えました。失礼しました)

11月 30, 2013

この頃、やっと上海蟹がうまく食べられるようになった。もう10年以上、毎年いただいているのだが、日本のずわいのようには上手くはいかない。蟹が小さいのだ。だから食べた後のお皿の風景が汚い。中国人はそれは見事に美しく終える。

特に上海人はまるでまだ蟹がそこにあるように皿の上に蟹肉のなくなったからだけが上手に生きた蟹の形で完成する。それをちゃんと意識して食べる部位の順序まで語る上海人がいる。中国人は食べっぷりもいいけれどこの食べ終わった風景も見事だ。

とはいってもそのきれいの意味はいろいろである。ひまわりの種を彼らはよく食べるのだがこれがまた見事にテーブルから床までその皮をまき散らす。まるで桜の花びらのように真っ白になる。これもきれいな終え方の風景である。

中国の料理は二度と同じものがいただけないほどにいろいろな種類がある。地方によって異なる味だけではなく、あらゆる素材を使いこなして壮大な料理の王国を造り上げている。昔から中国人の食欲のすごさはみなさんご存じだろうがその注文する料理の数と量にはいつもはらはらする。日本人はレス・イズ・モアだから食べ終わったときに料理が空っぽになっているのが接待なのだが、中国ではいっぱい残っていることが大切なのだ。がんばって残さないように食べておなかを壊しそうになったらまたまた注文されて困ったという話があるが上手に残すことが「ありがとう」なのだ。

そこでいつも困るのが骨付きの料理が多いことである。もちろん骨の周りは美味しいのだから美味の追求のためだと思うのだがそれにしても鳥の脚だったり骨付きの肉だったりで食べるところはちょっとしかないときも多い。

やってと最近、中国料理の食べ方がわかってきた。それは骨から外してから肉だけを口に入れるのではだめだと言うことである。骨ごと口に入れて、骨を後でぺっと出すことを覚えないと本当の中華料理の通にはなれないのだ。

上海蟹が上手になったのはこの要領を覚えてからである。脚についた骨格の薄い殻をがぶっと口に放り込んで舌で上手に肉を外して殻を口から出す。これである。ひまわりの種も同様、殻を外してからでは食べられない。歯でぱちっとかんで殻をわってその瞬間に中だけ食べて殻を外に出している。中国人の多くは前歯にひまわりの種を割るために2〜3㎜ほどへこんだ筋がついている。

骨付きの肉もあまり大きくなければ骨ごと口に放り込む。

日本料理は食べやすくすべてを準備する。蟹だって全部殻から外して提供する。骨付きはほとんど見られない。中国人はその味をそのまま生かそうとする。骨の周りが美味しいのだからあらかじめ外したりしない。こう考えると中国人の美食文化が理解できる。

料理ならそれでいいのだが、時々、中国人は事業もこんな感じだな・・と思ったりする。清濁合わせ呑んでその後から悪の部分をぺっとはいているんじゃないかと思ったりする。これはちょっと冗談も入っているのだが、その内、僕も骨ごと食べられてペッツペッツと骨を捨てられるかも知れない。

そう言えばこんな昔の話を思い出した。まだ30代のころだったか、京都大学の山岳部の山男が人の紹介で現れた。ヒマラヤ登山隊に参加して欲しいというのだ。いろいろな学問を背景にした人たちが参加するのだという。こんな話をしてくれた。ヒマラヤ登頂のキャンプではビールを楽しむのだがコップにビールをつぐと周りにいっぱいいる蠅がビールに混じってコップに入る。それをいちいち取り除いてから呑もうとする人は参加できないよ、というのだ。ビールと蠅を一緒に口に入れて、蠅だけをぺっつとはき出すのだという。それができなきゃ来ない方がいいと言うのだ。

人生も民族も日本式と中国式があって、どうやら日本式は完成度は高いのだがひ弱な文化であり、中国式は野性的でサバイバルできる文化だという風に思えてくる。

蟹の食べ方が文化の強さを教えてくれる。

 

11月 29, 2013

このところブログを離れてフェースブックに偏っていた。確かにフェースブックはすぐに手応えがあっていい。その気持ちよさに流されていると気づいたときにはその内容までが流されている。フェースブックはやはり現代的なのだ。ふっと心の中を寒う空気が通り過ぎる。

僕はこう言っていた。フェースブックは「辻説法」だ、と。立ち止まって聴く人もいればちょっとそちらを見て足早に去って行く人もいる。それでもいい、語っていることが大切なのだ・・・と、そう思ってきた。辻説法だから寒風が声をかき消し、心を一瞬、寂しさが通りすぎたりする。それは当然のことなのだろう。

その代わり、反応がいい。ぱしぱしと反応がある。これが現代というものなのだろう。同時にちょっとこころ寒くもなる。

ブログを復活してみようと思うようになった。そう、何度もそう思ったのだがいざとなると面倒だ。そうだ、きっとこの面倒さは物々しいセッキュリティーにあるのではないかとパスワードを簡単にしてみた。覚えておくことも難しいパスワードだったからこの点は解決したのだが・・・それでも大変やっかいだ。

フェースブックに比べてブログはどうしてこんなにスピード感がないのだろう。常々思うのだが個人情報の保護だのセキュリティーだのは僕のように開け広げの人間には面倒でかなわない。そんな立派な個人情報などもっていない。知りたいことはなんでも覗いたらいい。悪質なウィルスは困るのだが人間性善説の僕はそんな警戒などしたくはない。

「デザインと死」はこの曼荼羅ブログを見つけたソシムという出版社のおかげで本になった。つい最近、この本は簡体語で中国の出版社から翻訳本が出版された。フェースブックも整理してまとめて出版も可能かと思っていたのだがどうもそれはいろいろな意味で難しい。テンポが軽やかすぎてしまう気がする。

ブログの重さとフェースブックの軽さを両方生かしてみようかと考えている。しばらくは実験である。

とにかく、僕の頭の中には語りたいことがいっぱいある。このまま死ぬわけにはいかないのだ。語り尽くしてからじゃないと死のうにも死ねない。創りたいものもいっぱいある。やりたいこともいっぱいある。限られた人生でこれをやり尽くすことは難しいだろうけれど、挑戦するのが人生なのだろう。

続くかどうかはわからないけれど、挑戦してみようと思う。

(2013/11/29)

12月 24, 2011
このところ東アジアの歴史や地理を調べ思索し、東アジアとは何かを掴もうとしている。僕の探り方の一つは地形なのだが、人や思想の移動が地形と関係が深くて「地形による文化史」が出来そうである。

中国は「大陸」、韓国は大陸から生えた腕のような「半島」であるし、日本はその半島の先にはなれてある「島」になっている。韓国は大陸の一部でありながら半分だけ島の性質を持っている。

島国の日本は異民族の流入による混血がなく、ガラパゴスのように文化は特殊化し、純化した美意識が生まれたし、韓国は日本に比べるとやや大陸の一部として支配民族の交代や混合が起こっている。大陸の中国は多様な民族の交流の場という程に支配する民族の激しい交代という混沌の場である。

この地形の3つの国の個性を前提にして、どのように東アジアとして同一の文化、美意識をつくりあげたかを考えなくてはならないのだが、東アジア全体を眺めると中国の圧倒的な面積が巨大な高地であり、西から(ヨーロッパ)と南(インド)からの文化の流入を妨害している。
生活圏として適した平地は西安、成都、重慶あたりから東であり、黄河と長江の下流域、沿岸部に開けている。一方、日本の東は広大な太平洋があって大きな壁になっている。国境の概念を捨てて「文化の領域として東アジアを見る」とこの西の高地と東の大洋に挟まれた、「黄海を中心にするエリア」が東アジアの文化の盆地に見えてくる。桃源郷のようでさえある。

最盛期のローマが地中海を中庭のように真ん中に持ったエリアだったのだが東アジアも黄海を中心にした一つの「東アジアの文化領域」を形成していることが明確である。次の時代をつくる「文化の東アジア圏」があり、僕の取りかかっている「東アジアの美意識」のエリアの括りが見えて来た。

 

12月 13, 2011



(深圳でのディナーテーブル)

こんなに近いのに日本人は中国のことを知らないな〜と思う。近くて遠い国とはこんなことだろう。親は子どものことを子どもは親のことを知らないのもこれに似ている。無関係だと好奇心だけで対面できるのだが関係が深いと好奇心だけでは済まない複雑な意識が邪魔をする。

しかし、もうそんなことを言っている場合じゃない。このままじゃ日本は孤立するし破綻する。世界はどんどん動いていて世界の中での中国の位置は巨大になった。開き切っていない国だから想いも複雑になるのは否めないが、政治家のように国と付き合うのではない、付合うのは中国人だ。

 

中国人だって日本と言う国を考えたらいろいろな想いがあるだろう。過去は捨てろといったって親の世代や祖父の時代のことだから記憶は消せないでいるだろう。国じゃない、人と付き合うのだと考えることが出発点だ。

 

僕はいろいろな言い方としている。一つは「僕はアジア人だ」という表現であり意識である。こういったとたんに中国人も韓国人も日本人も同じになる。僕たちはアジア人だ・・・と生活できる。経済不況だけではなく経済成長さえ自分の問題になる。国の境界ではなく文化の境界をこそ考えるべきだ。

もう一つは頭から信じることであり、好きになることだ。信じる人を人は裏切らないし、好きになれば気になっていたことも許せるようになる。好かれて好き返さない人も少ない。

 

先手必勝である。先ずこっちから信じ、好きになることだ。

 

今、世界はグローバルになったという。グローバルと言う意味は世界が丸く見えるようになったということであり、一つになって動くようになったと言うことである。昔は日本の一地方、福岡は福岡の生活があったのに今は東京も福岡も日本の一地方である。これまでは日本には日本の生活があったが今は中国もギリシャもドイツも、そして東京も世界という丸い地球の一部としてつながっている。

 

ギリシャの国債発行が日本を苦しめている。日産自動車はそのほとんどを日本以外の国でつくっている。日本のいろいろな企業の多くがその製品の殆どを海外で販売している。こんな時代には日本は一人では生きていない。みんなつながっている。昔は福岡の県境は強い意味があったのだが、今では知らないで通過している。今は国境を越えるのにパスポートをチェックされる。でも生活の実態はとっくに国境なんて消えている。

 

確かに日本は島国だから優れて純化した文化をつくりあげた。その素晴らしさと裏腹に文化も純粋だが意識も閉鎖的で、異なる意見を排除したがる。動物の世界では弱肉強食で他者はいい餌でもあり外敵でもある。こんな混沌を知らない日本人はなかなか世界に出られない。だからますます、中国のことを知らないままでいる。

 

妻の母親は若い時からアメリカに出入りして、彼女の最初の出版は英語で書いた本だった。もちろんアメリカで出版されている。そんな母から聞いた話である。マッカーサーが日本の占領政策として最初にしたのは「日本人の研究だった」と母はいう。最初に日本に上陸したアメリカ軍のチームは徹底的に日本人を研究していてどうこれからの日本を再生させるかを滅密に考えていたらしい。

 

日本も中国の文化と中国人の過ごして来た歴史を勉強するべきだろう。日本政府は中国研究をどの程度行っているかである。知らないことが恐怖を生むし不信感を育てる。そもそも多くの民族の闘争の歴史を持つ国だから相当に異なる文化を持っている。多様性そのものであるこの中国を、純粋な日本文化の内に過ごしてきた日本人には不慣れなのは当然だろう。

 

中国の政治がまだ解放されていないのも問題だが、日本人の意識が未だに解放されていないのはもっと問題だろう。みんな「アジア人」の意識を持つべきだ。

 

中国人の或るデザインオフィスは香港に本社を持っていると言っていた。もう一つの僕の契約している家具会社は本社がやはり香港だ。支社はパリにある。アジア人の意識を持って、アジアの一地域である日本を本籍地であり故郷と考えて生活の場、仕事の活動の場はアジアだと考えてはどうだろう。そうすれば仕事のあるところへ行って仕事すればいい。風光明媚なところで休息し、販売に適したところでショップを持ち、生産技術がすぐれコストの安いところで生産すればいい。アジアのすべてが自分の国だと考えればいい。

 

 

 

11月 18, 2011

ずんぐりとしてまるで小象のような椅子である。太い4本の脚から繋がる背への形がちょっとヒップに似ていて、なぜか座る度になぜてしまう。

 

木の切り株でも、路傍の石でも丁度いい高さなら何だって椅子になる。椅子はだから座る人が椅子にするんだといってもいいのだけれど、椅子をデザインしようとなると簡単ではなくなる。

 

20年以上前に構想して,試作だけして倉庫に放り込んであったのだが、ある日この椅子の写真を見た、見知らぬ人から「あの椅子を買いたい」と申し出があり、そういえば・・・と思索してくれたミネルバの宮本さんに相談して商品として世に出ることになった。何とも不思議な生い立ちの椅子である。

 

あの頃、どういう発想からあの象のような椅子ができたか記憶がないのだが、僕の心の深層を解剖して行くと一つの秘密が見えてくる。

 

あれは「椅子になりたがっている座布団だ」とあるとき閃いた。

日本には家具の歴史がない。家具は西洋のように履物を履いたまま部屋で生活する人たちが腰を下ろして「ホッとするところ」である。

玄関で履物を脱いでごろごろ寝転がることもできるプラットフォームのような「床」という貼り廻らした板の上に「畳」という歩くことも出来、寝転がることも出来る適度なクッション性をもった素材を敷いて、寝る時には「布団」を、座る時には「座布団」を敷き、そこに座る日本の家では「椅子」が発達しない。

 

畳とは実に巧妙な素材感のマットである。食事を入れたお膳を置いても不安定にならず、座布団をしけば快適に座ることの出来る不思議な畳のお陰で日本には遂に椅子は生まれることはなかった。

 

近代になって、西洋の椅子やベッドの生活が導入され、合理的な住まいを考えだしてから日本では和式と様式の二重の生活スタイルを持つことになったのだが、そんな「椅子の歴史を持たない日本の椅子」はどうあるのだろうときっと無意識に考えたのに違いない。

 

そして、椅子の思想が座布団に乗り移ってこのZOが出来たのではないかとフッと思った。これはちょっと面白い説明である。この「椅子になりたがる座布団」という発想が自分で気に入ってしまった。

 

デザインはこうしてもっともらしい説明を受けて心のどこかにストンと納得する。きっとこのZO の背後には「ギリシャ神殿の列柱」のイメージが重なっているのではないかとも思うのだが説明の面白さを考えたらこの話はない方がいいかなと思ったりもする。

デザインは理論からは決して生まれない。もっと複雑な思考やデザイナーの嗜好が微妙に重なって、本人も気付かないことがデザインの中に忍び込んでいて、なぜこのデザインが生まれたのだろうと自分の意識や記憶を再解剖することでやっと自分でも納得するのである。だから誰もこのデザインの本当の意味を知らないと言うべきなのだろう。

 

でも「椅子になりたがっている座布団」はなかなかいい。そういうことにしておこうと思う。ZOに聴いたらきっとそんな答えが返ってくるような気がする。