6月 02, 2014

僕は今、息子に何を残してやれるかを考えている。

ある遺伝子学者が言っていたこと。人間なんて重要じゃないんだ、遺伝子こそ大切なんだ・・・という言葉が脳裏に残っている。僕という人間は消えるのだが、もう27年前に僕の遺伝子は息子の中に移してある。その遺伝子学者に言わせるとそうなった僕はもう不要なものだという。遺伝子の運び屋である僕は役割を果たし終えて息子が僕なのだ。
こうしてバトンタッチして僕は再び、若くなって広い世界で人生を過ごす筈である。すばらしいことだ。僕は息子にこう伝えてある。僕が稼いだお金は全部使い切るよ。だからお金は君に残さない。僕が残すのは僕のDNAと僕の人脈だけだ、そう言ってある。

 

彼が大学2年生の秋だったか・・・突然、建築に興味を持つようになった。その変化がびっくりするほど急なのだ。その時、僕は妻にこう言っている。あいつ、きっと自分の中の遺伝子と出会ったんだ・・・と。きっと彼は建築家家族の濃厚な建築のDNAと出会ったのだろう。そして目覚めたのだろう。それと前後して彼はSFCの学園祭の委員長をすると立候補していた。もちろん、僕にも妻にも相談なしだ。その学園祭に出かけて、息子の活躍ぶりを見て僕はすっかり荷を下ろした気分になった。もう僕の力はいらない・・・彼は自分の人生をしっかりやっていくだろう・・・そう確信をしたのだった。

 

そんな彼の幼稚園時代は決して自発性や指導力を感じさせることのない少年だったし、信じられない程にまじめで正義心の強い少年だった。片道一車線の細い車道の向こう側に彼を見つけてこっちにおいでと言っても決してすぐには道路を渡ってこない。横断歩道まで移動して・・・渡って、またこっちにくる始末なのだ。その彼が学園祭の委員長に自分の意思で立候補したのである。自分の意思で建築家になると決めたのだ。
自分で選んだ建築家という職業を彼はなにの悩みも無くまるで天命のように夢中になっている。スイス南端のメンドリジオ建築大学を選んだのも彼自身である。僕はその学校の存在すら知らなかった。自分で選べとさえ言っていない。物事をいつまでも決めない・・・そんな彼なのだが、ぎりぎりになるとしっかり決めている。
今年、大学院を修了するのだがその後の人生についてもいつまでも決めないでいる。これが彼の人生の歩み方なのだろう。計画は練るのだがそれにこだわらないのだろう。いつでも変更して最善の道を選ぼうとしているのだろう。

 

大学が環境情報学科だから建築学科ではない。それがSFCのいいところなのだが構造や設備などの技術の教育は充分とは言えない。坂茂君の研究室には入らないで有名すぎない教授の研究室に入る。メンドリジオでもそのような状態だったらしい。僕も早稲田の理工科大学院で一番人気の吉坂隆正さんの研究室は避けたいた。大学院入学のときに世話になったのだから本当は吉坂研究室にはいるのがマナーでもあるのだろうけれど、僕は個性の強い吉坂さんをファンのように思っている学生たちを避けて自分の建築を探そうとしていたのだろう。
息子もきっとそんな気持ちだったのだろう。観察していると回りに流されることなく自分の道を選んでいる。幼稚園時代には友達のお尻を追いかけてばかりいたのにである。

 

学生時代、息子は時々僕のこう訪ねる。「パパ、今日は何時に帰る?」そんなときは必ずリビングルームに模型や図面がいっぱいになっていた。僕の意見を聞こうというのだ。あるとき隈研吾に逢ったのだがこの話をするとうらやましがる。自分の娘は決して親の意見を聞こうとしないというのだ。君の息子は優秀だね・・・とも言ってくれる。慶応時代に彼は隈さんの教室にも出入りしていたらしい。
僕はこう慰めた。息子と娘じゃ違うよ・・・と。それにしても父はいったい息子にとってなのなのだろう。僕はこう考えている。人の心の中には2つの心がせめぎ合っている。1つは記憶が自分を引っ張る。父母への想いもあるし伝統への思いもある。もう一つ、人の心は大きな好奇心と未来への希望や願望がある。生命を思い切り羽ばたかせて記憶など振り切って前似進もうとする力がある。建築でも伝統に引きずられ過ぎるといい結果が生まれない。父母への愛が深すぎても未来への飛翔が難しくなる。適度に愛しながらその絆を切る力が必要である。ふっと息子のことが心配になる。でも彼は大丈夫だ、引きずられすぎてはいない。中国でも伝統やアイデンティティへの関心は深いのだが僕はこう言っている。前をむいて歩こう、伝統からもアイデンティティからもどうせ逃れられないのだから考えなくてもいい・・・そう言っている。

 

息子は・・・初めは日本という自分の文化から離れていたから3年ぐらいは日本ですごそうと言っていた。尊敬する日本の建築家のところを打診するといっていた。息子の未来について何も言わない僕に彼の方から僕の意見を訊いてきた。パリでの時だったかメールでだったかは忘れたけれど、親父はどう考えているか知りたいと言うのだ。僕には僕の人生のプログラムが漠然とだがある。僕がいなくなる時は必ず来るのだからその時を考えて自分のオフィスの始末の付け方や残されるスタッフや関係者の処し方の計画を始めてもいた。
先ず、Kという会社をつくった。これは僕のデザインした製品を製造し販売する会社なのだが、こうすることで残された関係者はそれを製造販売することで会社を維持できる。

 

日本の社会は年寄りには冷たい。新しいものをいつも探しているから年寄りはいらないと考えている。インターネットが発達することでデザインも映像化する。映像化して新鮮な映像を生み出す人たちにメディアは群がる。思想は疎かになりデザインが白痴化し、デザインやイメージが消費されるようになる。企業は面白いものだけをつくるようになる。深い感性をもつデザインは好まれないから生まれない。そんな時代に直面して売れるか売れないかではなく「本当にいいもの」をつくる会社を興したのである。すぐには売れないがそのうち、売れるようになるだろうと考えてもいた。

 

その上、設計事務所の名前を「黒川雅之建築設計事務所」から「K&K」と変えた。「Kスタジオ+Kブランド」の意味であるのだが、心の底には僕がいなくなっても使える社名・・・が頭にあった。
僕は息子にこう告げた。いつでも帰っておいで・・・、帰ってきたら自分の会社をつくるのがいい。自分の城を持つといい・・・そう告げた。オフィスに余裕があるからそこを使えばいい・・・稼ぎが増えたら家賃もらうからね、と。僕のオフィスにはテーブルを借りて自分のオフィスを持つ若者がいた。今はスタッフなのだが週に1日は自分の仕事したいというスタッフが半自立している。ネットワーク・オフィスのようなものである。息子をその自立した建築家として受け入れようというのだ。
事実、最近見た彼の作品はなかなかである。もう自立できる。勉強は生涯するものだから一人で歩き始めるといい。

 

最近、彼はスイスでもう少し仕事をしたいと考えている。ピラミッド型の組織は作るつもりは無いとも言っている。それは僕の構想と全く一致する。そこで前からの構想が生き生きとし始める。息子はヨーロッパの友人とネットワークを持てばいい。日本にもきっと友人たちがいる。中国には僕の関係がある。アメリカはどうなのかは知らないが友人がいっぱいいるらしい。そうなったら彼の構想の実現が近づいている。拠点はスイスでも東京でも北京や天津でもいい。僕が5月に天津のパトロンとつくった建築事務所はまだコンテンツがない。固まっていないのだ。そこに彼のオフィスが生まれてもいい。

 

6月の終わり頃から一週間程の北京、天津の旅を息子としてくる。マダガスカルに住んでいる一番年長の息子がまだロンドンのADスクールにいる頃、ユーゴスラビアでのコンペの審査会に同道したことがある。やっと一番年少の息子と旅ができる。僕のマネージャーが今、詳細な計画を立ててくれている。要するに僕のネットワークを息子に繋ごうというのが僕の構想である。どんな建築家人生を過ごすか知らないが自分自身の死後の時間も見据えてのヴィジョンを描くのは楽しい。

 

そういえば・・・と思い出す。建築家だった父が死後のことを考えていろいろ計画していた。誰が家に伝わる位牌や黒川家の墓のケアをするか・・・から遺産相続はどうするか・・・であり自分の葬式をどう行うか・・・という計画である。まだ元気な内に父は自分の葬儀のときの「会葬者へのお礼の挨拶」の原稿までつくっていた。妹の話では、そうする内に、祭壇はどこにつくって・・・控え室をどこ・・と計画して、「ところで僕はどこで挨拶しよう?」と言い出したそうである。自分の葬儀に自分が出席しようと言うのである。父らしいほほえましい話である。僕も亡霊になって息子の設計に口出ししているかも知れない。

 

どうも僕は父に似ているらしい。こうして、息子のネットワークづくりまで手配している。死後のスタッフの生活まで考えている。僕の身体の中にそういえば父の建築への情熱や思想が宿しているのだろう。それを受け継いで僕は自分の思想を育てている。あの真面目だった父の血がこの僕の身体のなかに僕らしい真面目さで流れている。息子の慎重な姿勢も祖父から父を経て彼の中に息づいているのだろう。

 

つい最近のことだけれど、天津にできた「夢蝶庵」は僕のこれまでの殻を脱ぎ捨てた新しい建築だと思っていた。しかし、よく観察するとまだ25歳頃、大学院生だったころにカウフマン財団に提出した構想をそのまま、継承している。数歳のころに人間性ができるという。二十数歳のころに僕の今の思想がもうできていたらしい。きっとその先、もっと深いところに父が描いた構想があるのだろう。
近頃、父や母に会いたくなる。近頃の自分の写真を見ると父にそっくるなのだ。自分の中に運んでくれた父のゲノムに感謝したくなる。息子との旅が楽しみだ。二人目の妻の間にできた子供たち二人とはその後、逢えないままだ。きっと死ぬ前には逢ってくれるだろう。とっ散らかして生きてきた人生をもう一回、とっ散らかして生き直してやろうと思っている。僕のことだから死後のことは忘れないだろうけれど(``)。

 

(写真は僕の近影。夏書亮さんの撮影である)