5月 09, 2014

紛争ってどういうときに起こるのだろう・・・と近頃,考えている。地政学的な発想でどの地域に紛争が多いかを探し紛争の理由を探している。

1つは「民族」が他の民族と衝突する場合。これは血の問題になる。民族のアイデンティティを探るのもいいけれどそれが「愛国心」になり「独自性」を主張し始めるとかっての「大和民族」の発想や、韓国の「民族の独自性」と「愛国心」とそして「他民族の蔑視」につながる要素をもっていて危険である。中国は満州に漢民族をどんどん定住させることで満族という民族を曖昧にしてしまった。民族の血による征服である。いま、ウズベキスタンへの漢族の送り込みで同じようなことをしている。一種の民族の血族的平定だ。ユダヤ人の問題はこの民族問題である。

もう一つは「宗教」である。異なる宗教はどうしても神や思想の相違から相手を征服する傾向がある。キリスト教も魔女裁判でそれをやってきたし、一神教は他の神を許さないから対立的になる。東アジアはキリスト教とイスラム教の2つの一神教の影響が小さくて独自な自然崇拝を維持し得ている。宗教は人の心の問題なのだが、対立を生みやすい。中近東ではこれが生活の近代化を妨害している。

もう一つは「記憶」である。人は今に生きているのだが個人の生活の記憶だけではなく、記憶が「伝統」となったりもしている。ウクライナの場合、かってロシアの一部だったころのいい思い出の部分が独立を促している。

あえて言えば、もう一つ、「地理的条件」がコミュニティを形成してアイデンティティをつくり出している場合もある。日本という島国の場合には島であることがコミュニティーを閉鎖的にして固有な文化を形成するのだが他の文化との衝突が起こりやすい。グローバルになって、多様性の時代を迎えるとこの性質が障害になったりする。

日本の文化を考えていた時代から、僕自身が中国に出入りする回数が多くなることで東アジアの文化圏を考えるようになった。いろいろな地球上の国々のボーダーラインを乗り越えて文化圏で考え始めると国家とは何だろうと思い始める。国家などいらないのではないか・・・と思うようになった。特に近頃の日中韓の反目を見ると国が邪魔になる。中国人は日本人以上に親しい人がいっぱいいるのだが中国という国家の政治家たちはそうはいかない。

ところが民族、宗教、記憶、地理に多様性のある場合には衝突と反目が起こりやすいことに気付いた。ウクライナの場合にはむしろ国家という概念がばらばらにならないように人々をつないでいる。国家という概念の存在価値はあるらしいということだ。邪魔な場合もあるのだろうが、これは僕には新しい発見である。

人間は「不安におびえている」。生まれながらに底知れぬ不安のどん底にある。人間は不安だから人を愛し,友情を育て社会を構成するのだが、不安だから同時に争い,戦争をし、対立し合う。不安だから民族意識を持ち、不安だから宗教が生まれる。伝統を重んじるのも不安のせいだろう。実は創作は不安を解消するためにある。人が創造活動をするのもその不安のせいである。

結局のところ、不安が社会を混乱させ続けるのだろう。渾沌は実は生命の持つ原初的な状態なのである。荘子はそれを紀元数百年のころに指摘している。渾沌とは秩序と反対の概念だと思いがちなのだがそうではない。渾沌とは動的均衡をいい、ダイナミックな秩序のことだと僕は思っている。不安は人間の本質と関係している。不安は生命自体が初めから持っているものなのである。その永久に不安な人間が渾沌の醍醐味を享受していると考えるといい。争い憎しみあう人間の性を嫌いながらそれでも生命の本質がそこにあることを認めなくてはならないことに気付いている。

(映像は荘子の語る渾沌の物語_渾沌は生命であるとこのたとえ話で語っている)

_北に儵という皇帝がおり、南に忽という皇帝がいた。二人の皇帝は日頃から渾沌という中央にいる皇帝に世話になっていた。二人の皇帝はそのお礼に渾沌に7つの穴を空けてあげることになった。二人はこの穴を空けたのだが、最後の1つの穴を空けたとたんに渾沌は死んでしまった_こういう物語である。(7つの穴とは2つの眼と2つの耳と2つの鼻と1つの口のこと)