食欲は生き続けるための本能、性欲は種が世代を重ねるための本能である。自然の仕組みは実に上手くできている。生命の仕組みに継続の力が最初から本能として準備されている。人間がどんなに怠け者でも死ぬこともなく滅びることもない。食欲がなかったら仕事に集中して食べ忘れてしまうだろう。人類も滅びているだろう。
食事は生きられればいいとう訳にはいかない。栄養が足りればそれでいいと言うわけにはいかない。美味しい食べ方があり、美しい食べ方がある。赤坂の砂場には毎月一回はいかないとつらくなるところである。蕎麦もいいが蕎麦の前にいただく酒のつまみ、アサリや焼き鳥、だし巻き卵などが旨い。食べる歓びはお腹を満たすことの上にこの旨いという感動が待っている。そこで飲む酒はますます僕を幸せにしてくれる。
ある日、ヨーロッパ帰りの若者が訪ねてきて砂場にいこうと言うことになった。確か、3,4人で食べたのだと記憶している。食べながら、その若者がこんなことを言い出した。「日本では食事で音を出してもいいのですってね・・・」。いや、そうじゃないんだ。舌鼓を打つというだろ?どんな音でもいいのじゃない。美しい音を出すことなんだよ・・・と蕎麦を箸につまんで食べて見せた。美しい音をだすためには先ず、蕎麦は適量つまみ上げることだ。シュッとすすり込むための適量を見つけてつまみ上げた蕎麦の先をそばつゆに入れシュッと一気にすすり込む。
バチバチという拍手にびっくりした。砂場の女将さんが働く女性たちと一緒に拍手していたのだ。びっくりしたね。きっと女将さんは僕の説明が嬉しかったのだろう。美しい音をだして蕎麦を食べること・・・日本の美意識を語る僕に嬉しくなったのだろう。
中国から客人が時々来る。みんなお金持ちかりっぱな事業家である。でも日本食の正しい食べ方を知らない。中国の日本食レストランでは学ぶすべもないのだろう。そんな客に鮨の食べ方をいつも教える。鮨はカウンター越しの主人と客との戦いなんだ・・・と。最高の鮨を握ってポンと出す。その瞬間に客はすっとそれを口に入れる。どうだ!旨いか!と出した握りをぱくっと食べて知らぬ顔をする。これは旨いという表現だ。握りや吸い物をカウンターに貯めて酒や会話に集中している輩がいると僕は腹が立つ。カウンターは戦場だ、命かけて握っている鮨職人への敬意はどこで表現するのだ。
握りの持ち方と醤油の漬け方も大切だ。箸ではなく、手で摘まんでネタにだけ醤油をつける。そのネタが舌に触れるように握りを裏返して口に入れる。決してシャリの側を舌に載せてはいけない。かすかな醤油とネタの味・感触を舌が先ず感じる、そして香りが口内から鼻に抜けるのを楽しむ。噛んで味を確かめる。同じ鮨がずっと美味しくなる。かすかな音楽に耳を傾けるようにかすかな香りも味も逃さないで鮨を味わう。
蕎麦のつゆを蕎麦の先にちょっとだけつけるのはかすかな蕎麦の香りと味を感じるためだ。そのあとでつゆの味が口の中で追いかけてくる。蕎麦とつゆのダブルイメージがオーケストラのように口の中に広がる。建築の空間も照明の設計もこんな要領でデザインしている。
蕎麦とそばつゆで思い出すのはエスプレッソの美味しい飲み方である。昔、TVの取材でポンペイの秘儀図を訪れたことがある。まだ発掘作業をしている土工事をする職人が僕たちクルーを見つけてエスプレッソをご馳走してくれたのである。数人いたイタリア人たちはどさっと砂糖をカップいっぱいに入れてまるでコーヒー付けの砂糖にして飲んでいる。
東京に帰ってからいろいろ試みてみた。一番美味しい飲み方はザラメの砂糖をコーヒーに入れて、かき回さないままにすすることである。最初はコーヒーの香りと苦みが口の中に広がり、遅れて砂糖の甘さがチッと口の中に入ってくる。これも味覚のオーケストラだ。
こうして、いろいろな飲食の仕方を探っていると美味しい頂き方が実は美しい頂き方に繋がっていることに気づかされる。そしてそれが同時に作法になっていることにびっくりする。
こうして食欲は文化を生み出していったのだろう。動物にはない、美しさの追求がおいしさの追求になり共存の作法にまで高まっていくのだろう。性欲にも食欲とどうように文化への発展がある。生殖だけではなく、美しさを求めて性は一つの文化になっていく。嬉しいことである。