なにが正しいかを語ることはなかなか難しい。これが正しいと主張するときには価値の基準がはっきりしていなければならない。ほとんどの日本人は自分の行いを正しいことと言いながら判断の基準を持っていない。いわば勝手に自分の基準で正しいと言っている。
それでいいのだと僕は思う。人間は価値を探しながら彷徨い生きているのだから、正しいことが何か分かっている筈はない。探しながら生きている。おそらく死ぬまで分からないままなのだろう。
それにしても何かの物差しがなくては人生のすべてに自信が生まれない。この日本人、或いはアジア人といってもいいのだが、僕たちが生きている基準は自然なのだろうと思う。物差しは自然なのだ。そしてその本当の意味は美しいことが基準なのだと思う。
西方の人たちが神の基準で「正しく」生きているのだとしたら、我々東方人は「美しく」生きようとしている。この美しく生きると言うことは、考えて見ると様々なところで発見できる。武士が切腹するのは武士道に従ってのことなのだが決して詫びるためではない。間違ったことをしたからではない。武士は美しく生きるために腹を切ったのである。三島由紀夫の切腹もそうである。恋いを許されず入水自殺する解決も美の実現の他にない。どうやら美の究極は死にあるらしい。
西方の人たちが哲学を持っているとすると僕たちは美意識を持っている。美とは自然の秩序に従うことなのだから美意識とは自分が感じる「生命的な感覚」や「ここちよい感覚」と考えればいいだろう。美という感動のために生きている我々は幸せものである。僕は理論さえ美しくなくてはならないと思っている。思想さえ美しくなくてはならない。美は究極の価値なのだ。美は神のようなものである。
仏教では仏は自分の中にいる。或いは自分の中に育てようとする。西方のように神が自分や世界をつくったのではないから、我々ははじめからひとりぼっちである。仏さえ自分の中に育てるのだ。自分の中に他者を見つけたりする。人類だって自分の中にいる。僕たちの思想からは特定の創造者はいなくて、自然がすべてである。そしてその自然も自分の外にではなく自分の内にある。自分自身も自然なのだからそういうことになる。
キリスト教やイスラム教の人たちが正しい行いをしようとするときにはちゃんと神の定めた価値が背景にある。価値が自分の外に確固たる思想の背景をもって決まっているからイスラムならジハードという自爆ができるし、キリスト教なら神の好む行いがしっかりと見えているから「正しさ」を基準にした生活も可能だし確信を持って行動できる。
仏教の場合にはそれほど簡単ではない。仏教の仏は自分の中にいるのだから言うならばすべては自分で決めるのである。・・・君が煩悩と戦い悟るようにすべては自分の心に中に価値の基準があることになる。
自己を大切にする。自我を大切にする西欧人よりも東方人の方がずっと自己を頼りにして生きている。デカルトの「我思う故に我有り」とはまさに何を今頃・・・と思うほどに神の存在が先にあり神の創作としての人間という思いが心の深部にあるからだろう。僕たちには当たり前にすべてを自分で思い自分で感じて生き方を探している。
美を基準とするためには自分の美の基準を探さなければならない。孤独なのは我々である。そして、同時に僕たちほど他者と融合した存在はない。他者は自分の中に生きているからである。
正しいことのために僕は死ぬ気はないが、美のためなら死ねるというのはここから来ている。自然体で生きられるのも美を基準としているからである。僕は美を探すために明日も生きている。
僕たちは西洋人にはない特異な能力を持っている。それは「物を見ないで物が発する気を見る能力」である。気が見えるから間が見える。この能力も美を、自然を基準としているからである。全神経を皮膚に集中して物が発する気というエネルギーを感じ止めることができる。人や物との間合いを計って行動することができる。これは野生の感覚である。自分の中に自然があるからだろう。