一人でいると寂しいのにみんなと居ると一人になりたくなる。勝手だな~と思う。若い頃は夢中でわいわい騒いでいて平気だったけど近頃は特に一人の心地よさは捨てられないなと思う。
人はだれでも一人で生まれて一人で死ぬのだけど一人でいると不安なのも否定できない。一人がいいなという気持ちには僕は一人じゃないという自負があるのだろう。心の底には一人の不安と恐怖が宿っているように思う。
人間はたくさんの人に依存して生きている。一人で生まれ一人で死ぬのだけれど一人では生きられない。両親がいなくちゃ自分は生まれなかったのだし、女性がいなくちゃ子供もつくれない。寂しくなると女性と抱き合いたくなるのも母の体温の記憶のせいなのだろうか。子孫を残そうとする生物の本能からだろうか?
人は依存しながら自立させられている。人は酸素なしにはいきられない、他の生物を食べて生きている。本当は独り立ちなどしていないのに、心は一人で生きなくてはならないのだからかなわない。
人間は、本当は自然の一部である。自然の一部だと言うことは自然に依存していることなのだがそれにもかかわらず一人で考え、自分の世界を持ち、その内的世界は決して人と共有することができない。
人は孤独である。孤独だから人に会い、人と共感したくなるのだが、結局、一人であることを思い知らされる。人の心の中は見えないのだ。どんなに愛し合っていても人の心の中には入れないのだ。
だからまた、人を求める。そして裏切られる。
人間と人間には共感などは決してあり得ないのだろう。そう考えることが正しいだろう。
人はすばらしい自分自身の内的世界を持っている。人は人の創作に感動するときそれは共感ではなく単なる共鳴なのだ。ともに感じるのではなく、他者の創作が刺激になって僕の内的世界が共鳴するだけのことなのだ。そこでは他者は伝達ではなく単に刺激を与えたにすぎない。
視点を変えると、本当は人間の孤独は寂しいことでも悲しいことでもない。無限に広がった内的世界の支配者なのだ。引いてみれば孤独でも挑戦的に見れば支配している。
それなのに、その支配者は限りない浮遊感にも同時に苛まれてもいる。矛盾する二つの絶対的な感覚がある。耐えられない孤独と不安と恐怖があり、偉大な内的世界の自信に満ちた尊厳とその不安が共存している。創造の原点にこの二つの矛盾した感覚があるのだろう。
不安を感じる能力、不安を不安として受け入れる能力と燃え上がる自分の中の創作の感覚。強い人間とはこの二つをしっかりと捕まえていることなのだろう。
(写真は三里屯の装飾照明)