12月 06, 2013

ひとりは寂しいなと思う。ひとりでいるとき、思わずほほえむときもある。美しい風景に出会うときはすっかりひとりでいることの歓びに浸ってしまう。ひとりの時にこそ空間のすべてが僕の皮膚感覚にとどく。

ふたりでいると相手のこころが感じやすくなる。急にまわりの風景は消えてその人の人格まで伝わってくる。好きな人に触れているときはもっといいのだろうけれど、触れなくても昔からの様々な思い出がその笑顔や癖やはにかんだ様子からどきどきと伝わってくる。離れているからこそこの感覚がひろがっていく。

さんにんでいると二人でいるときと違った軽やかな会話がはじまる。集いという暖かい空間がひろがって三人の周りにもやもやと漂い始める。よにんもごにんもさんにんの延長である。群の独特な電気的信号が走り交うちょっぴり緊張感のある空間になる。

このところ、茶のことを考えている。茶は食卓の飯とことなるもう一つのうれしい時である。

ひとり茶という茶器をつくってみた。ひとりでだれもいないときに呑む茶をイメージしての茶器である。テラスに運んでひとりで風景を見ながら呑む茶のためでもある。茶はひとりに限る・・・とそんな時は思う。

日本の茶道の茶は小学校のときから馴染んできた茶である。おじいさんの催した茶会、父の時代の茶会・・・そして田中一光さんと茶の仲間と催した茶会もある。静寂の空間に湯の音を聞きながらもてなし、もてなされる茶はここへ来てよかったな・・・とほっとするメンタルな時間である。複数の人たちといながら自分に向かっていてひとりである。

ニューヨークでの展覧会のためにデザインした「between」といい、時に「蛍」という茶卓は立礼のための卓だが、明かり障子をそのまま卓にした紙と木でできた茶のためのテーブルである。こぼせば破れるからやぶれないようにそっと使う。破れたら張り替えればいいし、新しい客をもてなすときはその度に張り替えるのがいいと思っている。僕の田舎では客がくるときにはいつもあかり障子を張り替えていた。

その「蛍」のような、もう一つの茶卓を中国茶のためにつくろうと今、デザインしている最中である。日本の茶は中国から禅とともにやってきたとも言われているのだが中国人はいまでも茶が大好きである。中国文化にふれるためには先ずこの茶卓の創作がはじめの挨拶かも知れない。

中国料理は「みんな飯」である。ひとりではほとんど食べることができないほどだ。ようするに大皿盛りの料理だからである。中国茶も亭主が多くの人々にまんべんなく煎れる。小さな杯につぎつぎと注いでくれる。日本の茶の原点が「一客一亭」なのに対して、中国の茶のイメージはこんな集いの茶である。

実に多様な茶がある。ヴィンテージ物になると300年、500年まえの茶だったりする。プーアル茶がそれである。何万種類ある茶を選びながらもてなす。茶の香りを嗅ぎ、味を舌でころがして味わう。

2月に北京の798の大きなギャラリーで個展を計画しているのだがそこで発表予定である。ここではひとり茶のイメージより集いの茶が実現するだろう。