昨夜は物学研究会で伊東豊雄君に講演をお願いした。彼の伊東塾の塾舎で開催して、後は懇親会と楽し夜だった。
関康子さんの質問、「伊東さんは震災の後、何か思想の変化がありましたか?」。その回答の内容にあまり記憶はないのだが僕は勝手に別のことを考えていた。それは僕の東北被災地への態度、姿勢とも関係していた。僕は何度か訪れたのだが「見ること、感じること」が目的で手をさしのべることをしないままでいた。
建築家は果たして被災者と同じ地平で感じ、考えることができるのか?できはなしまい・・・という思いだった。だからあの伊東豊雄君は仕事ができる。被災者じゃないから「みんなの家」が造れる、と思っていた。どうしても「みんなの家」は「のうてんき」に見える。被災者の気持ちにきっと彼も悩んだのだろう。よそ者に何ができる・・・ときっと被災者たちは豊雄君たちの活動に心を許してはいなかったに違いない。
人の気持ちと同じになるなんてあり得ない。どんなに想像力を働かせても被災者の気持ちに近づくことなどできないに決まっている。そんなところでどんな気持ちで「みんなの家」を構想できるのだろう。
こう考えながら昔からの自分への一つの設問が僕の頭を去来した。「建築家に自邸は設計できるのか?」という設問である。被災地のあの悲劇の最中にいてはきっとあの家はできないだろう。設計の方針もイメージも沸いてこないだろう。その被災者の心境は自邸を設計する建築家とあまり変わらない。自邸とは自分の日常の整理できない様々な、混沌とした空間である。人生の現場だから生活の思想など整理できるはずがない。整理できなきゃ設計できない。被災者の気持ちはそれと同じなのだろう。
ずっと昔。そうたぶん僕の30代の前半だっただろう。僕は「建築家には自邸は設計できない」と何かに書いた記憶がある。それはそんなところからだった。
伊東豊雄君は被災者じゃなかったから「みんなの家」が設計できた。被災者と距離を置くことでやっと設計できたのだろうと思う。あのときから年月が経った。30代のあの時代の熱い思いは変わらないけれど、多少は見えてきたような気がする。
それは被災者にも設計はできるということだ。被災したこの悲劇から自らの意識を自立させて・・・現実から自分を引きはがして自分を観察さえできれば設計できる。設計という操作は自己の生活を客体化しなくてはできない。そうして混沌とした、自分も巻き込まれている現実を自分の中で客体化して初めて自邸も設計できる。
伊東豊雄君の心の中におそらく語らない無力感が潜んでいるのだと思う。講演のはしはしにそれが見えたように思う。建築設計はサービス業ではない。人の歓びや社会のために設計していると公言する人がいたらむしろ僕は軽蔑するだろう。そのように見せながら結局は自分の生き様なのだ。
いつもそうなのだが、人の講演や人の著した本に触れながら自分のことを考えている。学ぶとは考えることなのだなと思う。
(先に掲載したこの文章が途中から途切れていた。いつも直接、ブログに書くから消えてしまった内容を再現できない。新たな結論になったが修正を加えました。失礼しました)