5月 29, 2011

新しい街は当然、再び地震や津波に被災しない街を考えることになる。どうしても「被災しない街」,「再び、命を失わない街」を構想することになる。それは当然である。

その街は「自然の力を侮らない街」になるだろう。自然に対して何が何でも対抗する街ではない。自然の一部である人間が、自然の猛威に曝されて生きていることは誰でも承知している筈である。

なぜ、樹木が台風でも簡単には倒れないかは樹木が風になびいて抵抗しないからである。なびいても根こそぎ倒れたり、枝が折れたりするのは、それも自然への従順さの一つのかたちである。枝を差し出して樹木の本体を救っているのだし、樹木が倒れる事で森を守っているのである。

 

自然は偉大であり、対抗してはいけないという日本人の本来の自然への姿勢を思い出す事である。

 

そこから発想すると、新しい街は地震にも津波にも弄ばれる街がいいことになる。地震に壊され津波に流される街がいいことになる。壊され流されても人の死なない街でなくてはならない。

絶対に壊れない家でできた街、絶対に津波に打ち勝つ街をつくろうと思うな!・・・と僕は言いたい。地震恐怖症と津波恐怖症に陥った街づくりをしてはならない。鳴く鳥の美しさ、夕暮れの感動、そよ風の気持ちよさ・・・それも自然である。人間は勝手に自分を傷つける自然を嫌がっている。人を射す猛毒をもった虫も気持ちの悪い蛇も自然である。その自然のなかで人はどう生きるべきかを考えたい。

 

アメリカのインデアンの長老が「今日は死ぬのにもってこいの日だ」と言ったそうである。長老はまた「あの樹木もあの石ころも、あそこに居る若者も今、何を考えているか自分には分かる」という、「それらはみんな昔、自分と一つだったから・・・」分かるのだと言う。

インデアンに限らない。人間が自然を自分と一つとして考えていた時代には当たり前のことだった。自分だけ、人間だけが別だなどと考えて自然を加工し、原子力発電をつくり・・・不遜になっている。

 

もう一度言おう。僕がいま、構想している街づくりは台風や地震や津波に堪えるものでありたいと努めながら最後には流されることも視野にいれる街づくりである。これまでの夫々の敷地に夫々の家を再建し、それでは当然、津波に再び流される街をつくる構想である。

巨大な防波堤をつくらない。美しい港町を破壊する巨大な防波堤はつくらない。強固過ぎる家はつくらない。

 

そのかわり、いろいろな工夫をしたい。津波に流されるチャンスは多分100年は先だろう。たとえそれが数十年先だとしても数年じゃない。だから巨額のお金を使い、どこまで大きくしても決して安全とは思えない「防波堤」はつくらない。30mの津波でも壊れない防波堤をイメージできない。風景は無茶苦茶になるだろう。巨額なお金が掛かるだけではない、その周辺の生態系を壊し、風や海の流れを変え、人々の心さえも破壊するだろう。

 

防波堤にお金をつぎ込むより、そのお金で「保険」に掛ければいい。街の再生と家の再生が可能な保険をを創設し、その保険で再生が可能にすればいい。流されても壊れても作り替えるだけの金額が補償される保険をつくればいい。変わらない人間・・・と僕はいつも思う。どんなに科学技術が進歩しようと人は変わらない。その「変わらない人間」が「懲りない人間」になればいい。壊されても再生する人間になればいい。

そして、家は壊れ流されても命はなくならない街や家をつくればいい。それなら可能だ。風に柳と自然の猛威を受け流せばいい。そのための知恵を探そう。