このところ、半分を中国で過ごしている。この生活はまだ3年程度で、中国に触れる年月は少ないのだが、中国にいると日本にいる時のようにスタジオや家に閉じこもっていることはない。ほとんど毎日誰かと会い,誰かと仕事をしている。だから短時間なのだが中国の全体が見えてくる。
人間は実に上手くできていていろいろある癖は他の状況と緊密に関係している。1つのことだけを取り上げて批判したりすることは本当に怖いな・・・と思う。そのいくつかの例を取り上げてみよう。
こんなことここで取り上げていいかちょっと悩むのだが、今回のデザインコンペの審査会は中国の2つの大学の学長とフィンランドのデザイナー、ハッリ・コスキネンと僕の四人だったのだが、僕たち二人と中国の二人の審査員の間で大激論になった。高得点だった十数点の作品の中から金賞、銀賞、銅賞を選ぶのだが簡単ではない。それも価値感の相違というより事情の相違が激論を生むことになったのである。最高点だった作品に一人の学長が反対を唱えて譲らない。理由ははっきりはしないのだが、自分の大学の教員の作品らしく、個人的理由でその案を金賞にしたくないというのだ。僕はフェアーじゃないと激怒する。理由を問うても言葉を濁してしまう。最後には審査委員長の僕に任すというので金賞になった。銀賞は2つなのだがこの2つがまた決まらない。ビジュアルデザイナーなのだがある大学のもう一人の学長がどうしても10位にも入っていない案を銀賞にしたいといいだすのだ。理由は自分の大学の学生の作品だから・・・とはっきりしている。2時間のやりとりの後に結局主催国の事情に配慮して僕が折れた。あきれてしまうのだが中国はこんな風に金賞が決まり、銀賞が決まる。コネクションがなければ中国社会では生きていけない。政府とのコネクションだけではなく、こうして学長とのコネクションがなければ浮かばれないのだ。
僕は中国社会のネットワーク力をすばらしいことだと思ってきた。同級生や同じ大学の友人と組んでお金を出し合い事業をどんどん広げていく。だから事業の形もある会社には投資していて、自分の会社には投資を求めて複数の企業がネットワークを組んで多様な企業の総合体になっている。これは国家的規模の巨大企業でも政府も投資してこのようなネットワーク企業をつくっている。
そのコネクションがこのような形でデザインコンペの審査の場面にまで顔を出すのである。
そもそも、中国は計画がいい加減だ。建築設計の場面では資料となる既存の建物の図面を要求しても保存してないことがざらである。送られてきたとしても図面は間違いだらけである。こちらで描いた設計図もよく読まないで適当に変更して工事する。計画より現場で上手に納めればいいと考えているらしい。実行力は凄い。信じられない期間であっという間に完成させる。ものすごい現場力だ。計画力より現場力・・・これが中国なのだ。がんがん実行だけが繰り返されるから気づくと現実に建っている建物の図面が保存されていないことになる。
そもそもこのコンペは昨年12月に僕が提案して要項の案をつくり年内に募集をする計画だった。審査員が決まらないだけではなく、募集の開始がどんどんずれ込んでいく。ついに2月の末になってしまった。後で分かったのだが政府の許可が降りるのに時間がかかるのだという。何事にも政府の許可である。当然、応募数が増えない・・・一ヶ月後の締め切りでは設計している時間がない。このコンペは失敗だったか・・・と頭を抱えていた。
審査会のある前日になって千案を超える応募があったというのでびっくりした。精細な図面がたくさん集まっている。こんどは審査は二日間じゃできそうにない。理由を聞いてびっくりした。ここでも政府が動いている。政府が各大学に応募を命じていたのだ大学は学生を動員して取りまとめて提案しているらしい。自由な学生の判断での応募じゃなかったのだ。そのことと関係して、審査の段階でも学校側の意見が重視されることになる。コネクションで応募が増え、コネクションで審査結果に影響を与える。
中国人はお金を払うことを嫌う。お金にこだわる。これだけ聴くと拝金主義だと思うのだろうが,そうではない。中国人は未来に深い不安を持っている。頼りにできるのはお金だけだと思っているらしい。日本のように能力があれば未来がある・・・という訳にいかないのだ。コネクションのためにリベートを支払い,そのためにお金を貯蓄する。金がないとコネクションが作れないし生かせないからである。
中国人は税金の支払いを極度にいやがる。僕は当然のことだから中国サイドで税金を徴収してくれというのだが支払う側でも税がかかるらしい。ビジネスではない講演会だったかのように支払いたいらしい。中国人は自分の国を自分たちがつくっていると思っていない。突然、政府がいろいろなことを決めて通達してくる。子供は一人だけつくれる・・・などというどんでもない政策も政府が決めて一方的に通達してくる。市民はそれに従うだけである。「国に政策あれば、国民に対策あり」というそうである。
このような感覚で国を愛することは不可能だろう。自分を守るのはお金と家族だけということになる。国をつくるために税金を支払おうという思いは欠片も生まれない。反日だって政府の政策だからそれに従っているだけのことである。昔から中国はいろいろな民族の侵入を経験してきた。その都度、中国人は時に南に逃げ、時に防御性の高い建築を創り上げて自分の命を守ろうとしては来た。しかし、結局のところ大きな力には反抗せず従うことで生き延び,「耐える」という強靱な精神力をつくってきたのだろう。
中国は渾沌の文化だと僕は考えている。多様性の文化といってもいい。渾沌も多様性も1つの文化が他の文化と融合してできる文化という意味ではない。渾沌も多様性も固有な多様な文化が融合することなく共存することを意味している。大陸の中国ならではの文化と言えよう。島国の日本は他の文化に占領されることもなく、閉鎖政策を敷かなくても文化は純粋性をもったものに醸成されていく。日本人は多様性にも渾沌にもなじめない文化と人間性をつくりあげている。
さあ、これからの時代には多くの外国人と共に過ごすことになるだろう。いつまでもクールジャパンなどと文化の純粋性を売り物にしていては未来の日本はない。
日本人の特質は日本のこの様々な状況と今日までの歴史が創りあげている。中国人の特質もそれと同じ理由で出来上がっている。僕が初めから「中国人が好きだ」ときめてから中国通いを始めたことは正しかったと思う。自分と違うから否定するのではなく、一呼吸置いて全体から中国人を受け止めていくことで理解が深まっていく。
一面だけで判断をしないでおこう。拝金主義と簡単に否定的に見ることを止めよう。それぞれに置かれた状況があることを理解しよう。そして我々自身、多様な社会で育ち、多様な生い立ちを経験したのだが、その上に、民族的な相違や宗教的な相違をもった人々と共生することになる。多様性のなかで共存する力を身につけていくべきだろう。
そもそも、生物は多様性の環境で健全な生命力を育てる。そもそも生命それ自体が渾沌なのである。僕は建築や都市やプロダクトで渾沌を描いていきたいとさえ思っている。
(写真は北京、751の一角_アートギャラリーがたくさんある。工場の残骸と自然の蔦と現代の自動車と人間の痕跡が調和している)
3月 06, 2014
巨艦、中国を運転することは容易なことじゃないだろうな。共産党というたった一つの組織がすべてを考えてハンドルを右に左に切っているんだから大変なことである。ハンドルだって巨艦なら簡単には曲がらない。ブレーキだってアクセルだってゆっくりと効き始めることになる。でも現代はすべてがスピードの時代だ・・・。間に合うかな?
タイタニック号だって、氷山を発見しても結局、お腹をこすって沈没することになる。一党支配というけれど、一つの組織だけで・・・しかもその頂上にはたった一人の国家主席、習近平さんが目を配って艦長をしているようなものである。これは大変なことである。もっとたくさんの人の野生的本能を利用したらいいのに・・・と思う。
巨大な国家だから意思を隅々まで届かせるためにはどうしても大声でプロパガンダを叫ぶことになる。中国には至る所に赤い文字でプロパガンダが掲げられている。それも内容はシンプルだ。万人に通じる言葉だから簡単にしなくちゃならない。
政策もシンプルになる。政治家の腐敗をなくすためには高級なレストランに行くなとか高額な贈り物をするなと声高に、具体的に唱える。気づいたら中国の高級ホテルや高級レストランは大打撃を受けて姿をけし、高額ギフト商品を扱う店も閑古鳥が鳴くことになる。大気汚染が国民の不満になると工場を爆破してみせる。汚職を発見すると見せしめに絞首刑にする。分かりやすい方法を用いないと意思が伝わらないのだ。
そして、最近、この三月から北京の外のナンバーを持つ車は早朝6時から9時までは市内には入れない、と決めた。市民は戦々恐々なのだが政府は知ったことじゃない。荒っぽい方法で、分かりやすい方法で国民に大声で命じる。国民は「上に政策あれば下に対策あり」といって不満は言わず対策を講ずる。
反日だってそうだ。巨大な国を治めるためには「国土問題には一切妥協しない」とか「釣魚島は中国のものだ」といい「この範囲は中国の領土だ」とシンプルに表現する。要するにプロパガンダとおなじである。
僕は別に中国を非難などしてはいない。そうしないと巨大な国、中国は共産党一党だけで、習近平さん一人だけで運転できないのだ。アメリカを初めとする民主主義国家は「自発性」という武器がある。放置しておいても国民が自発的に工夫して社会が動いていく。政治はその動きを利用してある意味では柔道の「空気投げ」のように市民の力を利用して運転すればいい。巨大なエンジンじゃなく、小さいエンジンが繋がって大きな力を発揮する。デモクラシーの政治は巨大電算機ではなく、クラウドコンピューティングのようなものだ。
中国の一党支配は中華思想にまで繋がる中国的構造でもある。中華思想とは中国が一番優れていて他の国はそれに従属する国になるという思想である。言い方を変えればそうすることで彼らはまたまた自分で巨大な世界を運転しなくちゃならなくなる。政治の意味が民主国家と異なっているのだ。 まさにお疲れさまなのだ。情報化されてからの絶対的権力が短命なのはそのためなのだ。僕は中国を「共産党王朝」といっているのだが、それはこのことである。
中国の地方政府を訪ねたことがある。会議室で重々しく「黒川雅之氏の訪問を歓迎する・・・」と挨拶され長々と演説するのだが、そのすべてがあらかじめ書かれた原稿を読んでいる。そして、それを取り巻く部下たちが等しく、同じノートにその挨拶をメモしている。一種のセレモニーなのだろう。これもこの巨大な中心を持つ組織構造の末端までの命令の流れを表しているのだろう。
船長さん。お疲れさまです。民主化とはみんなが考えて組織を運営することなんです。一人では疲れますからみんなに考えることを任せてはどうでしょう?市民を信じると、彼らは自分で自分たちの未来を考え始めてあなたはその多くの市民の行動を上手にマネージメントすればいいことになるのです。そう教えてあげたいな・・と思う。
組織には「ツリー型」と「ネットワーク型」がある。絶対権力はツリー型で民主主義の組織はネットワーク型である。ツリー型は「事あるとき」には力を発揮するが「日常的」にはネットワーク型がいい。軍隊はツリー型であり中国は軍事的国家ということもできる。だから恐ろしい。
昔、「アルジェの戦い」という映画を見たのだがそのゲリラ組織が面白い。すべてのメンバーは上に「自分に命令する一人」がいて、下に二人の「命令を伝える部下」がいる。その集まりはツリー型で命令は伝わりやすいのだが官憲がゲリラ一人を逮捕して拷問にかけても上の一人と下の二人しか吐かせることができない。組織は簡単には壊れないし、最上部のリーダーは安全である。
組織はその時代と目的によって選択される。中国は「既得の権利を守る組織」になっている。或いは「無知な国民をまとめる組織」として有効である。それが次第に問題になってきたのである。「多くの汚職」が目立つようになった。内緒にしたい既得権が国民の目にさらされている。情報革命で無知だった国民が「知識」を手に入れ、知的に成長したのである。当然、ツリー型が続きにくいことになる。自然に「民主化」が進行することになる。習近平さんの苦悩はここにある。
その時代の流れを無視すると限界が来る。フェースブックを遮断してもウェイチャットがある。不満はばっと全国に広がる。国民の不満が爆発する前に汚職を処罰し、不良な工場を爆破し、役人の贅沢を禁止するしかない。
中国の大きな変化はそう遠いことではないだろう。世界経済の安定的成長のためにも「革命」ではなく、習近平さんの自発的「民主化」を強く願っている。
人間は本質的に「不安」をもって生きている動物で或る。不安だから芸術が生まれ、宗教が生まれ、不安だから人と人は愛し合い、時に争い、戦争も起こる。世界の各地で戦争が絶えないのは人間の本質と関係がある。だから戦争はなくならないのだ・・・宗教か芸術の力でそれを止めたいと思うのだが・・・。
2月 20, 2014
東京二期会のオペラを観てきた。 ジュゼッペ・ウェルディの「Don Carlo」である。オペラ劇場ではない東京文化会館大ホールだからオペラの醍醐味はだいぶ薄いのだが会場は満席で大盛会であった。
ドン・カルロに限らないのだがオペラからは「神と愛」の重圧に押しつぶされそうなヨーロッパ人が見えてくる。僕が大学生のころだからまだ10代後半か20代になったばかりだったのだが、東京大学の当時、名誉教授だった浅田孝さんがこう僕に語ってくれた。「雅之君、ヨーロッパ文化はキリスト教を理解しなくては分からないよ」と言うのである。100%キリスト教文化だというのである。オペラを観ているとその言葉を思い出す。
王も神に与えられた立場である。だから教会には頭が上がらない。王の后の昔の許嫁に対する恋心は神への罪の意識で苦しみに変わる。愛はどこまでも奉仕的で美しいのだが現実離れに感じるのは日本人だからか・・・。罪と愛の重さに押しつぶされて死を選ぶ場合も死後の世界は神の世界であったりするのだ。
大学生のころ、ニーチェだのサルトルだのに夢中になっていた頃、「神は死んだ」と絞り出すように書かれているニーチェの言葉が不思議だった。初めから僕たちには神はいなかったのだから当然である。神に人間の無力さを指摘されながら守られていたのに「神が死ぬ」ことで突然、不安におののくことになるのらしい。僕たちにとって人間は初めから不安な存在だったのだが、西洋人は神を捨ててはじめてその不安を知ることになる。
キリスト教は実に壮大な「仮説」だったのだと思う。この壮大な仮説を理論化するために哲学が育ったのだし、その仮説を広めるために世界一のベストセラーである聖書がつくられた。その聖書に1行、「ユダヤ人はキリストの死を否定しなかった」と書かれているだけでその後のユダヤ人の悲惨な運命が始まったのだそうである。なんと恐ろしいことだろう。
それにしても壮大にして華麗な仮説だった。建築から音楽から絵画から、生活の隅々まで呑み込んでしまったキリスト教の文化はオペラを観ても華麗で壮大である。初めてヨーロッパの旅をして美術館を観歩き、血みどろな絵画に驚いたのだが、キリスト教の物語は血だらけである。国家間の民族闘争もその血を生み出したのだが、キリスト教を布教する時の魔女狩りなどの血みどろの歴史も今のキリスト教文明を創り上げた影の物語である。狩猟民族で都市国家間の闘争がありそこにキリスト教の布教がこのような血を呼ぶのだろう。
あの感動的なオーケストラの音楽の背後にも見えないのだがきっと血のにほいがしみこんでいるのだろう。オペラは血だらけだった。美しい愛の苦悩にもどうしても血のにほいがする。
ほんとうに日本人は愛を信じるのか?愛を語れるのか?キリスト教の国での愛にはその背後に神への愛が見える。奉仕的で見返りのない愛。日本人にこの愛を本当に知っている人はいないだろうと思う。近代はヨーロッパで始まった。近代思想はこのキリスト教の思想を継承せざるをえなかったのである。こうして近代思想も近代建築・デザインもキリスト教的になり、禁欲的になった。まるでキリスト教がヨーロッパを、世界を支配して土着宗教を抹殺しつくしたように、近代思想は世界の個性的な文化を一色に染め抜いてしまった。
そして、神の価値観を科学技術の価値観にすり替えて、絶対的なものとして近代の価値はつくられていった。人々はその言葉の歴史の深い意味を知らないで「愛している」と言っている。君はほんとうに愛を知っているのか?そう問いたいと思う。ドン・カルロを観てフットそのことを考えた。
(写真は東京二期会の舞台ではない)
2月 18, 2014
まだまだ中国への誤解が多い。TVや新聞ではどうしても政治や事件しか扱わないから鳥インフルエンザがあれば中国中が危険に見えるし反日デモがあれば中国中、反日感情が吹き荒れているように見える。メディアは相当注意して報道しないとネガティブな感情をどんどん広めてしてしまう。
そこで、僕の回りの具体的な人間像を語ってみることにしたい。
Rさんという人物がいる。今回の旅はその関係の旅だった。彼は40代の恰幅のいい甘いマスクの好漢である。会社は沢山あるからどれが本拠地か分からないのだが医療器具の輸入会社が中心らしい。デザイン会社や工事会社を持っていて、出版をしたりギャラリーを持ったり・・・と文化事業にも手を出している。文化活動というべきかも知れない。
なにせ今回のプロジェクト、天津国際設計週(デザインウィーク)は今年は政府の予算が付かないので彼の私費で開催しようというのだから並のお金持ちじゃない。でも卒業は天津芸術大学。アーティストでもある。
そんな彼が僕を大切にしてくれている。彼のお父さんと僕が同年だというのだ。丑年・・・。父のように思えて・・・と僕の本を読んで作品を知って、その年齢を知ってから特別な態度で接してくれる。車のドアの開閉、エントランス、トイレのドアの開閉まで手を貸してくれる。階段では腕を取って注意を払う・・・。
中国人は家族を大切にする民族である。春節などのいろいろな節では全員、家に戻り、親戚を集めて心を温めあう。稼いだお金から数十万円に相当する金額の元を父や母にプレゼントしたりもする。ある友人はマックを従姉妹にプレゼントしていた。お金を支払うのが大嫌いでなかなか払ってくれないという反面、気に入った人や親族には気前がいい。要するにお金を大切にしているだけである。上海の名園の踏み石がお金の形だったり、ビルがお金の形をしているのは守銭奴というより金の価値を大切にし、平気で表現しているだけのことである。日本人はその大切さをしりながらどこかでお金を汚れたものと思っているきらいがある。でも彼らはお金をてらいなく大切に思っているのだ。
彼と天津で会食する。チェロ奏者で音楽大学で教鞭をとる奥さんと4歳半の男の子と彼と僕のマネージャーと5人での会食だった。育ち盛りだが作法をちゃんと守る少年。そういえばお父さんの彼は食卓に肘をついたりしない。帰りにはレストランの階段を降りるのに4歳半の息子が僕の手を引いてくれた。父を真似たのか父の指示に応じたのかは分からない。
彼は政治家ではないのだが天津の人民大会ではひな壇に並ぶ。毎日のように区長が何人も訪れて都市開発などの仕事の相談をしている。天津は昨年、上海を抜いて一番経済活動が発展した都市だった。巨大なショッピングモールができ都市づくりがすすんでいる。
広州にショッピングモールをもつ富裕族ファミリーの長男が友人にいるのだがその彼と違って英語も話せない。人間性豊かで全身で気持ちを表現しようとしているように見える。
中国との国の関係はぎくしゃくしているのだが、日本人と中国人の一人ひとりの感情は彼に限らずすばらしい交流ができている。もう一人の北京の中国人の社長はこういう。「日本に来たら中国人は全員、日本が大好きになるよ。だから心配ない・・・」と。政治って何だろう?国ってなんだろう?ふっと思う。国を愛する・・と考えたら日本人も中国人もとたんに尖閣列島は自分のものだと対立的感情になる。もう少し、皮膚感覚で中国と日本が感じあうことが大切なのだろう。新聞もTVも皮膚感覚を伝えることができない。
もっともっと訪問し合うことが大切なのだろう。頭ではなく野生的な感覚で人は人と触れあうことが必要なのだろう。
(写真は清水寺でのRさん。身体を縮めて僕より大きく写らないように注意しているのが分かる。そんな気遣いをする男だ)